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芦屋川の河口から南芦屋浜の海岸まで歩きました。 [兵庫県]

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先日の記事「芦屋川」で阪急・芦屋川駅から旧海岸線の河口までを紹介しましたが、今回は、その旧海岸線から現在の海岸線まで歩いてみました。上の写真は現在の海岸線の辺りから夕陽を撮った写真です。

こちらが旧海岸線の出発地点です。場所は兵庫県芦屋市です。
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左の堤防沿いを歩いて現在の南の海岸線を目指しました。
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コーナー部分の手摺は2018年9月4日に襲った台風21号の高潮で壊されていました。
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こちらの道を進んで南の海岸を目指しました。
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歩きながら振り返って芦屋川の河口方向を撮りました。
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陸続きで行けるのはここまででした。この先は埋め立てられた人工島になっているのです。
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右側が1997年1月(平成9年)に完成した人工島です。この場所は埋立で出来たところではありますが、昔の陸からの陸続きなので、現在の海岸線と言えるのかもしれません。ただし、この海の部分を航空写真で見れば、運河のように細いので、イメージ的には人工島の南側が現在の海岸線と言えるように気がします。したがって最初に決めた目的地は人工島の南側の海岸と言うことになります。人工島側に渡るためには見えている橋を渡る必要があると思われるために、橋まで歩くことにいたしました。
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橋が見えてきたので、その橋を渡るために堤防の海側から陸側に行くために堤防を越える必要がありそうでした。
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堤防の陸側に移動いたしました。橋まで行くと橋に上がるための階段がありました。
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クリックすると拡大その階段を登って橋に上がりました。橋の上から人工島の方向を撮った写真です。
橋の名前は潮風大橋(しおかぜおおはし)です。
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南西方向です。高架道路の阪神高速5号湾岸線(1991年開通)は人工島の最も北側を通っていることが判ります。
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橋の上からの東方向の写真です。芦屋の陸側から人工島に渡る橋は潮風大橋を含んで3本あります。潮風大橋の一つ東にあるのは、あゆみ橋で元も東側にあるのが浜風大橋です。あゆみ橋は名前から連想できるように歩行者・自転車専用橋です。写真に小さく写っている橋があゆみ橋です。
クリックすると拡大芦屋浜(埋立地)と南芦屋浜(人口島)がはさむ幅140m長さ1500mの水路は芦屋キャナルパークと呼ばれていてドラゴンボートレースやカヌー競技やウェイクボード競技が行われるなど、ヨットやカヌーのマリンスポーツが楽しめる場所となっているそうです。
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橋を渡り切って山側(北側)方向を撮った写真です。この道を歩いて水路を渡ってきたのです。
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橋から人工島の地上に下りると、その辺りは公園になっていました。
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公園には下の案内板で示しているようにスポーツ施設が沢山ありました。
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道路を挟んで公園の反対側も何らかの施設のようでした。この施設には南芦屋浜ウォーターパークと書かれていました。
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南の海岸に向かう道路沿いは住宅地になっていました。
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住宅地の中には水が流れる公園も作られていました。海の中の人工島とは思えない造りでした。
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この公園がある場所のバス停の名前は海洋町でした。背景に見えている高層ビルは南芦屋浜団地のビル群です。
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住宅地案内板が設置されていました。いろんな業者の住宅の分譲が行われているようでした。住宅地の総称は潮芦屋と呼ぶようです。
いくつかの分譲地の中で特徴的なのが芦屋マリーナに隣接した係留施設付きの住宅用地(レジデンシャルコーヴ/Residential Cove)です。ネットで調べてみると、その中の現時点の最高価格は238,000,000円でした。
この人工島の埋め立て工事は埋め立てが始まってすぐにオイルショックで1977年に中断し、工事が再開したのは10年後の1987年でした。そして埋め立て工事中の1995年1月17日に阪神・淡路大震災が発生して大きな影響が出て、最終的に人工島(南芦屋浜/潮芦屋)完成したのが1997年1月で、入居が始まったのは1998年3月でした。着工した1971年11月から26年4ケ月目でした。
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潮芦屋ビーチに出ました。人口のビーチです。2018年の台風21号の高潮では9個のコンテナが浜に打ち上げられたそうです。
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潮芦屋ビーチの別の角度からの写真です。見えている山は六甲山です。
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やっと、最も南側の海岸線に近づきました。
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拡大すると分かるように、防波堤では釣りをしている人が沢山いました。
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ここが、今回の目的の現在の南の海岸線です。こちらの手摺も台風で壊されたようです。手摺が壊れる前の写真はこちらです。→Google SV
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旧海岸線の芦屋川の河口から現在の南の海岸線まで歩いた道を紹介します。下のGoogle地図で2つの埋め立て地を紹介します。右の細長い地図で芦屋市の範囲を示しています。
 ━━ 芦屋川
 ━━ 私の高校生時代の海岸線(打出浜)
 ━━ 歩いたルート(芦屋川河口→海岸)
  鵺塚(ぬえづか)
  高校の卒業記念写真の撮影場所


人工島(南芦屋浜)の埋め立て当時の航空写真を紹介します。
   埋め立て開始当初          1993年5月
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   1995年5月             2014年1月
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海の景色を紹介します。
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南西方向です。神戸側の人工島は芦屋川よりさらに南に延びていて、コンテナ専用の港(コンテナターミナル)が見えました。
見えている場所は六甲アイランドです。
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精一杯のズームで撮った西方向の景色です。見えている橋は橋長217.6mの六甲アイランド大橋で、形式はダブルデッキローゼ橋です。
写真をクリックして拡大すると判ると思いますが、六甲アイランド大橋の奥に重なって見えるのが、世界初のダブルデッキ連続トラス式斜張橋の六甲大橋(全長:400m 支間長:220m)です。
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釣り人が並んでいた防波堤です。上の写真の景色がこの写真の中にあります。太陽の方向です。
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東方向を見ると沢山の人が釣りをしていました。上の写真の防波堤も入れた直線距離は940mです。これだけの人が釣りをしているということは、何かが沢山釣れるのだと思いしばらく見ていました。
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釣り上げた写真です。細長い魚を釣り上げました。ここにあった上の写真のような手摺は台風で流されたようです。応急対策として支柱穴に鉄筋を立ててトラロープ(Tiger Ropes)が張られていました。
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拡大してみるとタチウオ(太刀魚)であることが判りました。
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こちらでもタチウオを釣り上げでいました。
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15分くらい見ている間に5人の人がタチウオを釣り上げました。美味しい魚が沢山釣れるので、沢山の人が釣りに来るわけです。
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帰り始めたころに太陽がきれいな夕陽を見せてくれました。
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冒頭の写真です。雲に太陽が隠れ始めたところです。
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クリックすると拡大太陽が雲に隠れる瞬間です。右の写真は下の写真の太陽の部分を切り取ったものです。
雲が多かったので雲に沈む夕日となりましたが、晴れていたらきれいな夕陽を見ることが出来たと思います。
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住宅地の水が流れる公園まで戻ってきました。来るときは逆光のためによく見えませんでしたが、この写真で川のようになっていることが判ってもらえると思います。見えている橋は全長885m(支間長485m)の東神戸大橋です。橋のタイプは斜張橋でです。
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来るときに渡った潮風大橋(しおかぜおおはし)を山側方向に歩いて夜の飲み会の待ち合わせ場所であるJR芦屋駅を目指しました。
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埋め立て地の住宅街を通りました。
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旧海岸線を越えると国道43号線に出ました。この国道の歩道橋には驚いたことにエレベーターが設けられていました。
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片側3車線の計6車線で、中央の阪神高速の橋脚の部分を入れると実質は8車線の幅があるために年配者や足の弱い人は信号では時間が短すぎるために歩道橋で道路を渡る必要があるのです。そんなことからエレベーターが設置されたのだと思います。
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国道43号線の写真を紹介します。中央の高架道路が阪神高速道路3号神戸線です。
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せっかくなので、私が通った高校にもよってみました。校庭ではクラブ活動が行われていました。
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懐かしいので何枚も写真を撮りました。
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高校からJR芦屋駅に向かう道です。
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途中で国道2号線を越えました。
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やっとJR芦屋駅に着きました。


JR芦屋駅に集合した後は下の写真の大地(居酒屋)で、7名での飲み会となりました。お店の料理も、近いうちに紹介したいと思います。
この日、芦屋で歩いたルートは行きが阪急芦屋川駅→芦屋川側道→芦屋川河口→芦屋浜(埋立地)→潮風大橋→南芦屋浜(人工島)→潮芦屋ビーチ(海岸)で、帰りが潮芦屋ビーチ(海岸)→南芦屋浜(人工島)→潮風大橋→芦屋浜(埋立地)→高校→JR芦屋駅→居酒屋・大地→居酒屋・まさや→阪急芦屋川駅です。その後、阪急電車で逆瀬川駅まで帰りました。逆瀬川駅からは別の日に列車を乗り継いで自宅に帰りました。
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2種類のサツマイモをいただきました。 [話題]

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近くの方からサツマイモ-A(左)とサツマイモ-B(右)の2種類のサツマイモをいただきました。せっかく2種類の薩摩芋(さつまいも)をいただいたので、同時に食べて味の違いを確認することにいたしました。

こちらがサツマイモ-Aのベニアズマです。大きなベニアズマを4ついただきました。
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こちらが冒頭の写真のサツマイモ-Bです。名前はベニハルカです。10日くらい天日干しにすると美味しくなると説目をいただきました。こちらも4ついただきました。
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柿も沢山いただきました。畑の脇の柿の木になったカキだそうです。
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さっそく、天気の良い日にベニハルカを天日干しいたしました。ベニアズマは天日干しの必要ないとのとのことでしたが、一緒に天日干ししてみました。ベニハルカの方が表面の赤色が強かったです。
 上 ベニアズマ
 下 ベニハルカ
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ベニハルカとベニアズマの焼きいもを同時に食べて味を比較するためにに、同時に同じ方法で焼くことにいたしました。焼くために水洗をしたことです。水洗いすると色の違いがよくわかると思います。
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今までであれば高温のガスオーブンで焼いていましたが、偶々見た雑誌オレンジページに美味しい焼き芋の焼き方だ載っていたので、その通りにしてみることにいたしました。それはガスオーブンで焼く前にさつまいもを電子レンジで予熱することなのです。
その美味しい焼き芋の作り方の根拠になっているのがサツマイモは60℃~70℃を保持すると甘味が増すとのことでした。焼き方は次の通りにいたしました。写真は電子レンジで予熱が終わったところです。説明では3分でしたが串を刺して確認して実際には4分温めました。
左側の2本がベニハルカで右側の2本がベニアズマです。
 第1段階 電子レンジ  700W x 3分
 第2段階 ガスオーブン 200℃ x 40分
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ガスオーブンではむらなく焼くために回転テーブルに乗せて焼きました。写真はガスオーブンに入れる前です。左側がベニハルカで右側がベニアズマです。この後、上で記載の通り200℃で40分焼きました。
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焼きあがって皿に乗せました。左側がベニアズマで右側がベニハルカです。
サツマイモの分類を紹介します。原産地は中南米とされていて、いろんな場所を経由して日本に入ってきました。サツマイモは唐芋と呼ばれるように日本へは中国から入ってきました。1594年にフィリピンから中国に伝来しましたが、同年1594年に沖縄の宮古島の村役人、長真氏旨屋が沖縄本島の首里王府への帰途に逆風で中国に漂着し、サツマイモに出会い苗を持って1597年に中国を出発したあと苦労をしながら宮古島に着いたのが日本最初の伝来となるそうです。右の写真はサツマイモの花です。
ヒルガオ科のためかアサガオの花に似ています。
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 門 : 被子植物門   Angiosperms
   : 真正双子葉類  eudicots
   : キク類     Asterids
 目 : ナス目     Solanales
 科 : ヒルガオ科   Convolvulaceae
 属 : サツマイモ属  Ipomoea
 種 : サツマイモ   Ipomoea batatas
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それぞれを二つに折ってみました。左側がベニアズマで右側がベニハルカです。
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食感が判るように断面を拡大いたしました。食べた印象は次の通りでした。今回の場合はベニハルカの方が甘く感じました。ただし甘味に関しては個体差があると思われるので1回の比較では結論は出せませんが、食感の「ほくほく」と「ねっとり」は種類固有のものだと思います。テレビで何種類もの焼き芋が食べれる焼き芋屋さんへのインタビョーでは一番売れているのがベニハルカとのことでした。
 左側 ベニアズマ ほくほく
 右側 ベニハルカ ねっとり
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焼き芋は夕飯の一部だったので。ビール、味噌汁、漬物、チーズチップを用意してもらいました。チーズチップはイタリア産のパルミジャーノ・レッジャーノです。
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追伸
2018年11月11日から関西に来ています。 11月23日まで関西に滞在予定です。その間は皆様のところに訪問できないことお許しください。
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小島泰堂が青菅に作った学校 泰楽文園(泰堂塾) [風習・歴史]

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2018-11-10追記 タイトル:小島泰堂のふすま絵が見つかりました。
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今年の3月に紹介した小島泰堂の追加記事です。
いつも地域の歴史や風習に関して教えていただいているkazuさんから、千葉県八千代市下高野の個人宅に小島泰堂のふすま絵が見つかったとの連絡と共に今回紹介する写真が送られてきました。この襖絵(ふすま絵)があったのは江戸時代に下高野地区の名主をされていた名家でした。
襖(ふすま)に対して絵が小さいのは、母屋を新築した時に隠居部屋にあった泰道の書のふすまを母屋のふすまにするために隠居部屋の1間半の襖に4枚あったふすま絵を2間/4枚に表装しなおしたためだそうです。4枚の絵の内中央の2枚に小島泰堂の書が書かれています。

中央の2枚の絵を拡大いたしました。
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小島泰道の落款の部分を拡大いたしました。「泰堂」の文字が読み取れます。61歳の時に書いたしょでしょうか。
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近くにある福蔵院の敷地内に小島泰堂の書の石碑があることも判り、写真を送っていただきました。今までも見ていたのに気が付きませんでした。
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確かに落款の部分に小島泰堂と書かれていました。
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2018-03-18掲載
タイトル:小島泰堂が青菅に作った学校 泰楽文園(泰堂塾)
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千葉県佐倉市宮ノ台の青菅小学校内にある史跡の大塚・小塚があります。地名の宮ノ台は1980年代に、この地域に新興住宅地が作られるにあたり青菅の一部と井野の一部が1981年11月1日に宮ノ台に町名が変更になって出来たものです。この場所の旧名は青菅でした。
大塚は前記事で紹介した通り江戸初期に青菅の領主であった下記の旗本四代の墓所で、小塚はその夫人たちの墓所でした。上の写真は大塚の写真です。
 初代:川口宗勝 2500石 通称:久助   1548年生~1612年没
 二代:川口宗信 2000石 通称:孫作
 三代:川口宗次 2000石 通称:久助        ~1652年没
 四代:川口宗恒 2700石 通称:源左衛門 1630年生~1704年没

その大塚に小島泰堂の石碑が建てられていました。小島泰堂は青菅出身で幕末から明治にかけて、教育者・歌人・諸家・製茶業経営者として活躍された方だそうです
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大塚がある青菅小学校の周辺には小島泰道に関わる場所が5ケ所あります。ただし泰楽文園の碑( )は泰楽文園のあった辺りの土地を所有されていた個人宅の庭にあることから、個人宅が特定されないように個人宅のある下高野の代表的な場所にプロットしております。
泰楽文園( )は小島泰堂が明治13年(1880年)に千葉県印旛郡青菅村に作った学校で、多いときは200名以上の生徒がいたそうです。ただし小島泰堂は泰楽文園の時代以前の天保末年(1845年)ごろから青菅村で塾(泰堂塾)を行っており、江戸に住んでいた文久元年(1861年)から明治13年(1880年)にも江戸八丁堀で塾(泰堂塾)を開いていたことから約44年間(1845年ごろ~1889年没まで)も若者の教育に力を注いでいたことがうかがえます。
 小島泰堂の石碑(月読尊) 青菅地区(佐倉市宮ノ台)
 小島泰堂の墓および碑   青菅地区(佐倉市青菅)
 泰楽文園(泰堂塾)    青菅地区(佐倉市青菅)
 泰楽文園の碑       下高野地区(八千代市下高野)
 小島泰堂の製茶加工場跡  青菅地区(佐倉市青菅)
 小島泰堂の石碑(福蔵院) 下高野地区(八千代市下高野)


月読尊は小島泰堂が歌人としても有名であったことを表しています。月読尊は「月読みの鏡を見ればをす国の民のしあわせしろしめすかな」の歌から銘がつけられたようです。小島泰堂の図書を検索すると国立国会図書館に熱海調音詩歌集泰堂遺稿が保管されていることが分かります。熱海調音詩歌集の出版年は1886年なので小島泰堂の亡くなる3年前に出版されたようです。
泰堂遺稿(1892年出版)は表紙を入れて36ページで画像19コマで内容がネットで公開されています。→ポチッ
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左下には「泰堂翁謹書 時明治十九年・・・・・・」と刻まれていました。明治19年(1886年)は小島泰堂の熱海調音詩歌集が出版された年でもあり、無関係と言えないのかもしれません。
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右下には「菶蔫 小島稲子」と刻まれているそうです。菶蔫の文字だけが見ることが出来ました。
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真ん中下部には「能」と「民」の文字が読み取れます。真ん中下部には縦書きで「能見鏡者食国廼 民之福召所知哉」と文字が刻まれているとのことなので石碑の下部はかなり隠れてしまっていることになります。
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小島泰堂の墓( )は青菅地区の正福寺にあります。
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写真に写っている墓石および石碑群は全て小島家の関係したものでした。新しいものは昭和のものもありました。
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重要な小島家に関わる石碑がL字型に配置されていました。
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特に重要な石碑と墓石がこの4つです。一番右が小島泰堂を称えた石碑です。右から2番目には「小島家先祖代々之精霊」と書かれているのて小島家を代表する墓石だと思われます。この墓石は明治25年に小島姓の人が建てたものでした。建立年から判断して小島泰堂の子供さんが建てたのではないかと思います。右から3番目(左から2番目)が小島泰堂ではないかと考えています。左端は小島泰堂が建立した墓石ではないかと思われました。
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左端の墓石の正面から見て左側には小島勘十郎の名前が刻まれています。実は小島泰堂の本名は小島勘十郎です。本人の墓石のようにも読み取れますが、正面には2名の戒名が刻まれていて、それぞれ天保十二年十月五日と嘉永三年正月三日と書かれています。天保13年は1841年で嘉永3年は1850年です。小島泰堂が14歳と22歳の時になります。そのことから小島泰堂が大人になってから建てた墓石と考えるのが自然です。すなわち両親あるいは祖父母の墓ではないかと感じました。
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左から2番目の墓石が小島泰堂(小島勘十郎)本人の墓石と考えた理由は左面に小島翁の文字が読み取れたからです。右端の小島泰堂の石碑の中に何度も小島翁の文字が出てきました。
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小島泰堂の石碑と小島家の墓石です。両方ともに明治25年に建てられていました。小島泰堂が亡くなって3年目です。
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こちらが小島泰堂の石碑です。1889年4月1日に青菅村が志津村に統合されたので4月の前と後で住所が違います。クリックすると文字が読み取れる大きさに拡大いたします。
 本名 小島勘十郎 義精
 生誕 1827年 下総国印旛郡青菅村
 死没 1889年 千葉県印旛郡青菅村 or 千葉県印旛郡志津村大字青菅
別の資料で小島泰堂に関して書かれていた内容を枠内に転記いたします。
小島泰堂は名を勘十郎、義精といい、文政十年(1826年)下総国印旛郡青菅村に生まれた。幼少の頃から人にすぐれた才能をもち、佐倉藩儒臣吉見南山の門に入り数年勉学、帰郷し24歳で名主となり翌年には五郷取締名主、28歳の時、藩主(藩候)・堀田正睦(幕府の老中首座)の命により佐倉近治各部取締頭取となり、翌年には三三ケ村組合大総代役なった。万延元年「殖産興業述記」を藩候・堀田正睦に上書してこれを嘉納さられた。文久元年に江戸の八丁堀に家塾を起こし諸生を教授の傍ら井上文雄(国学者、歌人)に就き国歌を納め、多くの文人墨客と交わった。明治13年帰郷(53歳)、佐倉藩御林を開墾し茶園をつくり、「泰楽文園」を建て子弟の教導に当たり、遠近からの諸生を授業した。明治22年、62歳で没した。
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小島泰堂の石碑の台座の周囲4面にぎっしりと寄進者と思われる名前が書かれていました。正面の一番右に建碑費金義捐人名と書かれて、正面だけで39名なので100名近い名前が書かれていることになります。クリックすると特別に拡大するように設定いたしました。金額は3円から50銭です。物によって今の価値の数千倍から数10万倍と大きく開いており、生活様式も違うので物価は簡単に比較できませんが、当時の1円は現在の3万円程度の重みがあったのではないかと想像しています。拡大して見ると今でもこの地域に沢山ある立石、小澤、深山、蕨、友野、山崎、秋山、小林、小島などの苗字が沢山あります。近隣の青菅、先崎、井野、小竹、下高野以外の上高野、米本、村上などの離れた地域の人たちも入っているのにも驚かされました。
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小島泰堂の私学校「泰楽文園」があった場所( )です。現在は農地で私学校「泰楽文園」の痕跡はありません。遠くに見える建物が特別養護老人ホーム 志津ユーカリ苑で、沢山並んでいる温室が山万ユーカリファームです。
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泰楽文園の痕跡がないように思われますが、後で紹介する泰楽文園の碑に書かれいてる一節から、佐倉藩御林を開墾し茶園を作った場所であり、この広い土地そのものが泰楽文園の痕跡であることが分かります。一節の漢文を訳したものを枠内に紹介します。小島泰堂が江戸の八丁堀から青菅に帰郷した時の楽しみが3つあったそうです。その3つの楽しみの中の、2つ目の楽しみを記載した一節です。
その二は、広々とした荒地や山林を開墾してて茶を植えて茶園となし、傍らに塾の講堂や幾重にも曲がった堂榭(あずまや)などを築き、庭園には四季おりおりの草花を植え、門には龍が伏し蟠ったような日本の松を植え、その門柱には自分で「泰楽文園」と大書した扁額を掛けた。その臥龍松を植えたことについては、昔中国の易経という古典「飛龍在レリ天ニ・利レ見ニルニ大人ーヲ」という言葉がある。この古典の由来に基づいて、臥龍と飛龍とみたてて鑑賞するのが第二の楽しみである。
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泰楽文園の場所をGoogle地図にプロットいたしました。現在は農地となっております。この土地の中に、茶畑や泰楽文園の建物(講堂)や幾重にも曲がった堂榭(あずまや)がどのような配置になっていたか分かりませんが想像するだけでロマンがあります。泰楽文園の場所に次に紹介する泰楽文園の碑が建てられていたそうです。小島泰堂が亡くなった後は果樹園や農地となり、泰楽文園の碑だけは保存のために、土地の所有者であった現在の場所(個人宅の庭)に移して大切に保管されてきたようです。また泰楽文園の横にあった茶園で収獲した茶葉を茶に加工する製茶加工場は、クリックすると拡大志津小学校青菅分校(青菅分教場)の場所にあったそうです。実は以前に紹介した右の写真の青菅分教場は2代目であることも知りました。初代の青菅分教場跡は2代目青菅分教場から北西に200mの場所にあります。
驚いたことに、そこには小島泰堂が自ら発明した製茶蒸気釜が設置されていたそうです。つまり泰堂の製茶加工場跡に青菅分教場が出来たことになります。製茶加工場は泰楽文園から東に徒歩1kmの場所にありました。


泰堂の製茶加工場があった場所の写真です。製茶加工場があったことを示すものはありませんが、このあたりの近所の方にkazuさんが確認したそうです。この製茶加工場跡地に初代の青菅分教場が1903年(明治36年)に建てられたのです。写真の中に写っている石碑は奥州参りなどの碑で、青菅分教場や泰堂の製茶加工場とは関係がありません。
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こちらが泰楽文園の碑( )です。農地にそのまま放置されていたら120年を超える歳月の中で失われたかもしれない貴重な石碑です。本石碑は一般には公開されていませんが辻切り作りでお世話になっている下高野のkazuさんに紹介していただいて写真を撮らせていただきました。縁側でお茶までごちそうになりました。20歳になる猫ちゃんまで出てきてくれました。
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泰楽文園の碑は小島泰堂が自ら1886年9月(明治19年9月)に建立しました。泰楽文園が作られて6年目です。クリックすると大きく拡大するように設定いたしました。枠内に漢文の文字を記載いたします。
泰樂文園
夫人者不可不學餘自少志學焉抑文久二年東都苟開薫陶門然生徒日進月裒至明治五年凡行東修者殆一千有餘名也餘熟思老者若往于山張於茲告別于諸子因交諠之文士墨客况生徒乎各臨其宴餞賜詩歌揮毫或貨財之類載之船而帰郷焉今展之壁上以爲一樂也其間ト此地方頃鋤荒環以壘樹以茶築堂樹四楹三曲而擁庭庭前後都藝花菩門樹雙松偃蓋宛似龍翔扁挂之泰樂文園文焉易曰飛龍在天利見大人二樂也詩曰思皇多士生此王國所謂奉菅公廟園巽方祭人麿祠書棚孔与孟見于一榻如間如答餘登于茲數年間如一日是餘三樂也且當奎運隆渥負笈徒競入此門咿唔鏗々尓焉餘示之曰仁義者錬梁律禮者柱礎徳育禮者門性行育者家習育者桓體者田學之者果而其身泰而奕葉益盛也且夫可不樂哉
  時明治十九年秋九月園主  小島泰堂 自撰自書
 
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雰囲気を感じていただくために表面の拡大写真を掲載させていただきました。枠内に先人が漢文から和文に訳した内容を転記いたしました。貴重な内容です。
泰楽文園
夫れ人間たる者は、学問を身につけなければならない。故に、自分は幼い頃から学問に志し、佐倉に出て(天保九年)、吉見南山先生に就いて勉強と人間形成につき薫陶を受けた。文久二年、さらに江戸(八丁堀)に出て塾を開き子弟を教育する傍ら多くの人々と交流し修業した。明治五年に至って門人は前後凡そ一千余名を数うるに至った。自分の越しきたった数十年を熟々顧みて、年老いてはやはり故郷へ還ることが最も良いと思い、今まで交諠を温めてきた多くの文人墨客や、ともに手を携えてきた人々と別れることになり、その別宴を張った。その時集まった人々から詩歌や揮毫や、その上貨財の類等餞別を頂戴した。これを舟一ぱいに載せて青菅に帰郷した(明治十三年)。帰郷した私には三つの楽しみがある。
その一は、江戸をたつときの餞別の詩歌や揮毫そのた寄贈された軸物などを室内や壁に所せましとばかり披展して、しずかに此れらを鑑賞し往時を追懐する。これが第一の楽しみである。
その二は、広々とした荒地や山林を開墾してて茶を植えて茶園となし、傍らに塾の講堂や幾重にも曲がった堂榭(あずまや)などを築き、庭園には四季おりおりの草花を植え、門には龍が伏し蟠ったような日本の松を植え、その門柱には自分で「泰楽文園」と大書した扁額を掛けた。その臥龍松を植えたことについては、昔中国の易経という古典「飛龍在レリ天ニ・利レ見ニルニ大人ーヲ」という言葉がある。この古典の由来に基づいて、臥龍と飛龍とみたてて鑑賞するのが第二の楽しみである。
その三は、同じく中国の古典の詩経に「思皇多士・生ニズ此ノ王国-ニ」の語がある。それに因み菅公廟と人麿祠を奉祀し、書棚に孔子と孟子を祀り、詩経に準え、或いは問いかけ或いは答えして朝夕拝礼することを欠かさず、数年間全く一日の如く実行する。これが三楽だ。
塾のありさまをみれば奎運は多くの門人子弟たちが笈を負い来て咿唔の声が満ちあふれて、競って勉学するさまは、まさに奎運の開かれゆく思いである。仁と義し規律と礼儀と、そして特性を養うことによって心身は大いに安らぎ、ゆるやかになるのである。故に後の世まで盛に続けて楽しむようにしなければならない。これが即ち泰楽なのである。
 時明治十九年秋九月園主  小島泰堂 自撰自書 
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右から大きく泰楽文園と書かれているのが印象的でした。小島泰堂が若者の教育にささげた約44年間(1845年ごろ~1889年没まで)の内訳は次の通りです。
 前期 1845年~16年間 青菅村 泰堂塾
 中期 1861年~19年間 八丁堀 泰堂塾  
 後期 1880年~ 9年間 青菅村 泰楽文園
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泰楽文園の石碑が庭内に保存されている家には下の写真のような見事な白壁造りの土蔵がありその中に小島泰堂に関わる毎聴講讀音と書かれた資料が保管されていたそうです。その中には塾生の習書など貴重な資料が沢山入っていたそうです。泰堂翁の「泰楽文園」の構造や塾の内容なども物証的に片鱗を見ることが出来るそうです。その資料は研究者に寄贈されて今は別のところで保管されているようです。
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その研究者の報告文献から毎聴講讀音などの資料の写真を転用させていただきました。このような貴重な資料がこちらの家に保管されていたのは、この家の先祖の方が小島泰堂と親しい子弟関係にあったことがうかがえます。真中の写真は30年前の1988年5月18日に撮影されたものです。つまり寄贈されたのは、そのころだと思われます。
一番左側の写真が襖の表に貼られていた毎聴講讀音と書かれた唐紙です。
 毎聴講讀音 明治癸未之春日書千梅花薫所 泰翁
 毎に聴く講讀の声、明治十六年(癸未)の春日梅花薫る所にて書く 泰翁
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追伸
今日2018年3月18日の朝から3月27日の夕刻まで関西に行ってきます。その間はネット環境の関係から皆様のところに訪問出来ないことをお許しください。本記事のブラシュアップも4月に入ってからになりそうです。
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2018年スウェーデンオープン 伊藤美誠選手が世界1位・2位・6位を連続破って優勝 [話題]

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2018年10月29日(月)~2018年11月4日(日)に行われた卓球のITTFワールドツアーのスウェーデンオープンの女子シングルスにて伊藤美誠選手が準々決勝から3人の中国選手を連続破って優勝する快挙を達成いたしました。劉詩雯は日本では劉詩ブンと表示されています。
 対戦した中国3選手                  試合時間
  準々決勝 劉詩雯 世界ランキング6位 LIU Shiwen 49分51秒
  準決勝  丁寧  世界ランキング2位 DING Ning  38分53秒
  決勝   朱雨玲 世界ランキング1位 ZHU Yuling  26分02秒
ちなみに伊藤美誠選手の世界ランキングは7位です。最近では石川佳純選手が2018年8月26日にチェコオープンの決勝戦で中国選手に勝って優勝(今季2勝目)したのを思い出します。中国選手に3連続勝利して優勝した快挙を達成したのは、2017年4月15日に決勝が行われたアジヤ大会で平野美宇選手が、丁寧(1位)、朱雨玲(2位)、陈梦(5位)を撃破して優勝して以来です。→ポチッ
       2017年4月15日       2018年11月4日 
   優勝:平野美宇(11 日本)    伊藤美誠( 7 日本)
   2位:陳夢  ( 5 中国)    朱雨玲 ( 1 中国)
   3位:朱雨玲 ( 2 中国)    丁寧  ( 2 中国)
   3位:劉詩雯 ( _ 中国)    陳夢  ( 4 中国)
このような快挙を記録しておく意味で準々決勝、準決勝、決勝の動画を紹介したいと思います。いずれの動画も試合の試合開始時点から始まるように設定しています。

11月2日 準々決勝 スウェーデンOP 女子シングルス 伊藤美誠 VS 劉詩雯
  劉詩雯  3  10 11 11 11 11 08 04
  伊藤美誠 4  12 07 07 05 13 11 11
準々決勝は3試合の中で最も厳しい試合となりました。ゲームカウント1-3で第5ゲームの得点も10-11で相手にマッチポイント獲られてピンチに陥りましたが、そこから3得点を連続獲って逆転して13-11でゲームを獲ってから連続ゲームを獲る大逆転で勝ちました。最大のピンチは動画で38分10秒時点でした。見ごたえのある試合でした。
 最大のピンチの状態
  劉詩雯  3  10 11 11 11 11(Match Point)
  伊藤美誠 1  12 07 07 05 10
驚いたことに最大のピンチ時にTV画面で重大な表示ミスがありました。下記の赤字の部分が表示ミスです。劉がこの時点で勝っているとしたら状況表示はMatch Point表示になるはずでしたが、Game Pointでした。この表示ミスは動画の37分23秒からの試合から発生しました。
 TV表示 伊藤-劉 09-09 → 09-10 → 10-10 → 10-11 → 11-11
           → 12-11 → 13-11
 実際   伊藤-劉 09-09 → 10-09 → 10-10 → 10-11 → 11-11
           → 12-11 → 13-11


11月3日 準決勝 スウェーデンOP 女子シングルス 伊藤美誠 VS 丁寧
  丁寧   2  11 11 10 06 09 08
  伊藤美誠 4  03 07 12 11 11 11
準決勝も厳しい試合でした。2連続ケームを落とし第3ゲーム目も10-6で相手のゲームポイントになりましたが、それから伊藤選手が6連続得点を獲って10-12で第3ゲームを 獲った後は第4、第5、第6ゲームを連取して勝ちを手にしました。最大のピンチは動画で19分15秒時点でした。準々決勝と準決勝の試合を見て、ピンチを乗り越えた後の強さに驚かされました。
 最大のピンチの状態
  丁寧   2  11 11 10(Game Point)
  伊藤美誠 0  03 07 06


11月4日 決勝 スウェーデンOP 女子シングルス 伊藤美誠 VS 朱雨玲
  朱雨玲  0  03 03 05 08
  伊藤美誠 4  11 11 11 11
準々決勝、準決勝では伊藤美誠選手の持ち味である強打が決まらず苦戦の連続でしたが、決勝では強打を入れる確率を最後まで高く保つことが出来たおかげで世界ランキング1位の朱雨玲を相手に快勝することが出来ました。優勝が決まった最後のプレーは動画の31分05秒からです。


優勝が決まって小さくガッツポーズをした瞬間です。朱雨玲の打った球がネットの中央に当り、高く跳ね上がって外に出た瞬間の連続写真です。伊藤選手の左足元に卓球の球が跳ね上がっていくのが分かってもらえると思います。
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そして観衆の声援にこたえているところです。今回のプレーを見て、強打が安定すると、強敵であっても、これほどの強さを発揮することを実感いたしました。
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クリックすると拡大表彰式の写真も紹介します。この大会では表彰台に上がれるのは右の写真のように1位と2位だけです。動画でも優勝インタビューと表彰式を紹介したいと思います。
 優勝インタビュー → ポチッ
 表彰式      → ポチッ 
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2018年スウェーデンオープンの準々決勝の8名は日本人3名(加藤美優、石川佳純、伊藤美誠)と中国選手5名でした。日本選手に立ちはだかった中国選手5名は世界ランキング(WR)が1位、2位、4位、5位、6位、つまり中国TOP5(朱雨玲、丁寧、陳夢、王曼昱、劉詩雯)の全員でした。その中で勝ち残ったのが伊藤美誠選手だったのです。それにしても準々決勝(ベスト8)の段階でWR1位から7位が全て残っているのにも驚かされました。WR8位の台湾の鄭怡静選手はベスト32の試合で伊藤美誠選手がストレート(4-0)で破りました。
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2018年11月時点の世界ランキングを紹介します。クリックすると最新の世界ランキングを表示します。赤字はTIBHARプレイヤーです。
 日本選手のランキング → ポチッ
 オリジナルリスト   → ポチッ
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タグ:卓球
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カメハメハ大王像 Kamehameha Statue [ハワイ]

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ハワイ旅行3日目にイオラニ宮殿を見た後、イオラニ宮殿の近くに観光スポットの一つであるカメハメハ大王像が立っているとのことなので探してみることにいたしました。イオラニ宮殿の正面の門を出るとすぐに見つかりました。日本語式だとKamehameha Great King Statue(0件)ですが、検索しても当然ではありますが、このような言い方は出てきませんでした。ネット内を見ていると、主に次の4つの呼び方がされていました。単に「カメハメハ王の像」という呼び方でも「カメハメハ1世の像」として理解されるようです。
 Statue of Kamehameha the Great(94件)
 Statue of Kamehameha I(87件)
 Kamehameha Statue(73件)
 King Kamehameha Statue(70件)
下記リストの初代国王カメハメハ1世がカメハメハ大王で、日本と親交が深かったのは第7代カラカウア国王です。
     ハワイ王国・国王   在 位
クリックすると拡大 初代  カメハメハ1世 1795~1819年
 第2代 カメハメハ2世 1819~1824年
 第3代 カメハメハ3世 1825~1854年
 第4代 カメハメハ4世 1854~1863年
 第5代 カメハメハ5世 1863~1872年
 第6代 ルナリロ    1873~1874年
 第7代 カラカウア   1874~1891年  参考:1874年=明治 7年
 第8代 リリウオカラニ 1891~1893年     1891年=明治24年

カメハメハ大王像はハワイ州最高裁判所(アリイオラニ・ハレ)の正面にありました。クリックすると拡大カメハメハ大王像の後ろの建物がアリイオラニ・ハレです。歴史的な建物ですが、今でも裁判が行われている現役の最高裁判所です。横 濱男さんから頂いたコメント内容をきっかけに調べてみると、人気アニメのドラゴンボールの中で亀仙人(武天老師)が編み出した体内の潜在エネルギーを凝縮させて一気に放出させる右の絵の技「かめはめ波」の名前の由来はカメハメハ大王だそうです。漫画の作者である鳥山明さんが技(わざ)の名前を考えていたとき、鳥山明さんの奥様であり当時漫画家だった「みかみなち」さんが提案したものを「ばかばかしくて亀仙人らしい」と採用したそうです。→ポチッ
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斜め方向からのカメハメハ大王像も紹介します。カメハメハ大王つまりカメハメハ1世(Kamehameha I)がハワイ王国を建国し初代国王になったのは1795年で37歳前後の時になります。その後1810年(52歳前後)にハワイ諸島を統一しました。そして1819年(61歳前後)に亡くなりました。カメハメハ大王像は戦闘用ヘルメットをかぶり槍を持っていることから初代国王となりハワイ諸島を統一している時期の37歳~52歳の間の頃を表現しているように感じました。調べた範囲では約45歳を表現しようとしたようでした。日本ではカメハメハ1世よりはカメハメハ大王と呼ばれることの方が多いようです。「カ・メハメハ」はハワイ語で「孤独な人」あるいは「静かな人」の意味だそうです。欧米文明に接する前のハワイ語は文字を持たない言語であった関係で、アルファベットがあてられたことから、古い文献などではハメハメハ (Hamehameha) と表記される例もあったそうです。
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その斜めの角度のカメハメハ大王像を拡大いたしました。カメハメナ大王が羽織っているの黄金色のマントは貴重な鳥の黄色羽根で出来たケープ(マント)です。頭の帽子のようなかぶり物も黄色羽根で出来ています。おそらく黄金よりも高価なものだと思います。
またカメハメハ1世は次のような長いフルネームでした。
 名前 Kalani Paiʻea Wohi o Kaleikini Kealiʻikui Kamehameha o ʻIolani i
    Kaiwikapu kaui Ka Liholiho Kūnuiākea
 出生 1758年(諸説あり) ハワイ島カパアウ あるいは その近郊
 死去 1819年 61歳前後
 在位 1795年~1819年
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これがカメハメハ1世が実際に使っていた黄色の羽根で出来たケープです。ビショップ美術館で写真を撮ることが出来ました。黄色の羽根があまりにも貴重であったことから、他の王たちのケープは赤色の羽根を基調として一部に黄色の羽根を使っていました。貴重な鳥の羽根を約50万枚も使うことから制作も数十年以上が必要だったとガイドの方から聞きました。
クリックすると拡大黒い羽根の中に僅かな黄色い羽根を持つハワイ・オーオー(Hawaiʻi ʻOʻO)の日本名はムネフサミツスイ(胸房蜜吸)です。鳥黐(とりもち)で捕獲して黄色の羽根を4枚のみ取って放したそうです。Hawaiʻi ʻOʻO以外にKauaʻi ʻOʻOOʻahu ʻOʻOBishop's ʻOʻOが生息していたようです。オーオー(ʻOʻO)以外の鳥の羽根を使う場合も飛翔に支障が出ないように数枚だけを取って放していたことから羽根から作られたケープや頭の飾り物は貴重だったわけです。この鳥の羽根のケープ(マント)はハワイ語「アフ ウラʻAhu ʻula」と呼ばれています。
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これは形から見て王のものではないようでが、王の頭のかぶり物に近いものがビショップ美術館にありました。カメハメハ1世のものは全て黄色ですが、こちらは赤色の羽根が基調になって一部に黄色の羽根が使われています。
この鳥の羽根の冠り物(ヘルメット/兜)は主に戦争時に使われていたようで、クリックすると拡大ハワイ語で「マヒオレMahiole」と呼ばれています。赤い羽根はハワイ固有種で現在では絶滅危惧種のベニハワイミツスイ(学名:Drepanis coccinea)が主に使われていました。ハワイ語ではイイヴィ(ʻiʻiwi)と呼ばれています。
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カメハメハ大王像は次項で記載のように4ケ所にあり、ハワイ州では3ケ所にあります。最も有名なのがハワイ州最高裁判所の前の、このカメハメハ大王像です。この像は「キャプテン・クックによるハワイ発見100周年」を記念してイタリアで造られましたが、輸送中にフォークランド諸島の近くの海に没したため、再度造られたそうです。
沈没したカメハメハ大王像(オリジナル)はフォークランド島民によって発見されて最終的にハワイ島のカメハメハ大王出身の地であるノース・コハラ(North Kohala)のカパアウ(Kapaau/Kapaʻau)に設置されたそうです。
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Google地図にカメハメハ大王像の設置場所をプロットいたしました。ヒロのカメハメハ大王の台座のみKamehameha The Greatと書かれており、他の3体の台座にはKamehameha Iと書かれています。
 オハフ島 ホノルル  ハワイ州最高裁判所の前 1883年  
 ハワイ島 ヒロ    ワイロアリバー州立公園 1997年   
 ハワイ島 カパアウ  旧コハラ裁判所の前   沈没したオリジナル
 米国本土 ワシントン 合衆国議会議事堂の中  1969年 → 地図


こちらがハワイ旅行5日目に撮ったハワイ島のヒロ(Hilo)のカメハメハ大王像です。カメラの設定ミスで白黒写真(モノクロ写真)になってしまいました。前日に標高4200mのマウナケア山の山頂に登り沈む夕日を見るツアーに行った時にカメラの設定を変更したのです。その時に設定間違いをしてしまい白黒モードになってしまったわけです。ミスに気が付かないで翌日の昼過ぎまでの写真が白黒(モノクロ)になってしまったわけです。
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今回は訪れていませんが、参考のためにハワイ島ノースコハラの小さな町カパアウ(Kapaʻau)と、アメリカ合衆国議会議事堂(United States Capitol)のカメハメハ大王像の写真をネットから転用させていただきました。
上でも書いている通りカパアウのカメハメハ大王像は、ホノルルに建てるために最初に作られたオリジナルですが輸送中に船が沈没して、のちに発見されてカメハメハ1世の生誕の地であるカパアウに立てられたのですが、その経緯や時期に関しては記載サイトによりまちまちです。その中で最も正確に感じたのがWikipediaのカメハメハ像(オリジナル)でした。→ 原文 Google翻訳
オリジナルがカパアウに設置された時期に関してはネット内では船が沈没した2年後と1912年の記載がありましたが、本Wikipediaによると沈没してすぐにフォークランドの島民によって発見されて1882年にハワイ政府に売られて修復されてカパアウに設置されたと書かれていたことから、沈没から2年後に設置されたとの表現が近そうです。オリジナルもホノルルの像のように元々の表面は茶褐色の真鍮の地金と金箔でしたが、傷みがひどかったためか現在は塗装されています。クリックすると拡大右は1900年にカパアウのカメハメハ大王像の前に沢山の子供たちが集まっている写真です。ハワイ島ノースコハラ・カパアウのカメハメハ大王像は沢山の花で飾られている写真が多数あり、地域の人との結びつきを感じました。沢山の花のレイが飾られるのはハワイ州の祝祭日である6月11日のカメハメハ・デー(Kamehameha Day)で、1871年にカメハメハ5世によって制定さたカメハメハ・デーがハワイ州となった今でも続いているそうです。
     ハワイ島カパアウ        アメリカ合衆国議会議事堂
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4ケ所のカメハメハ大王像の顔を比べてみました。微妙に違うようです。
上段のオアフ島(左)とハワイ島ヒロ(右)の大王像の写真は私が撮りましたが、下段のハワイ島ノースコハラ(左)とアメリカ合衆国議会議事堂(右)の大王像の写真はネットから転用させていただきました。ツアーのガイドの方からカメハメハ大王像の顔は本人とは違うと聞きました。実は大王像のモデルとなったのはカメハメハ1世本人ではなく、建立当時の王である第7代カラカウア国王が宮廷の中から最も美しい男性をモデルに選んだそうです。
写真をクリックすると拡大いたします。
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こちらがカメハメハ1世(カメハメハ大王)の肖像画です。誰が見ても、顔だけでなく体形も像とは違うと思います。
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クリックすると拡大クリックすると拡大ハワイ旅行の初日に訪れたホノルル美術館内にも小さなカメハメハ大王像が置かれていました。
右の写真で比べていただくと分ると思いますが台座の形や台座に取り付けられている石板の模様から、ホノルルのカメハメハ大王像のミニュチャアのように感じます。他の3体とは台座の形が明らかに違います。
また、クリックすると特別に大きく拡大するので分かると思いますが、上の4体とは違う顔であることに気が付きました。是非とも比べてみてください。
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Google地図の航空写真でカメハメハ大王像を紹介します。小さな写真はカワイアハオ教会とイオラニ宮殿です。
クリックすると拡大クリックすると拡大 カメハメハ大王像
 イオラニ宮殿
 カワイアハオ教会
 アリイオラニ ハレ


カメハメハ・デー(6月11日)にハワイ島ノース・コハラのカパアウのカメハメハ大王像に花のレイを飾る動画がネットにあったので紹介します。いろいろの動画からカメハメハ・デーにはオアフ島のホノルルやハワイ島のヒロのカメハメハ大王像にも花のレイが大々的に飾られていることもわかりました。ただしオアフ島のホノルルのカメハメハ像では高所作業車が使われていましたが、カメハメハ大王の出生地であるハワイ島の2ケ所では2本の長い棒を使った昔ながらと思われる方法で花のレイを大王像に掛けていました。ノース・コハラでは木か竹の棒が使われていましたが、ヒロは大王像が大きいためか金属の棒が使われていました。是非とも3ケ所を比べてみてください。
 オアフ島ホノルル 高所作業車  → 動画1
 ハワイ島ヒロ   2本の長い棒 → 動画2 槍の交換(はしご車)→動画4
 ハワイ島カパアウ 2本の長い棒 → 動画3

タグ:ハワイ
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芦屋川 [兵庫県]

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上の写真は阪急・芦屋川駅のホームから海側(南側)方向を撮った写真です。右側(西側)から道路、歩道、川が写っていますが、その川が本記事のタイトルの芦屋川です。六甲山から流れ下りてきた川は一直線に海に向かっています。

こちらが阪急・芦屋川駅のホームです。右の電車が乗ってきた神戸三宮行きの普通電車です。
この日は兵庫県のJR芦屋駅の近くの居酒屋・大地で18時30分から飲み会があったことから実家のある阪急・逆瀬川駅から早めに来てみました。逆瀬川駅から阪急電車に乗って芦屋川駅で降りて海側に歩くのは懐かしいルートなのです。実は芦屋市の浜側には私が高校時代に通っていた学校があったことから、そのルートを歩いて学校を見るのも目的の一つだったのです。
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駅を降りて阪急・芦屋川駅方向に振り返って撮った写真です。見えている山が標高931.25mの六甲山です。右の写真は開業(1920年)から数年後の阪急芦屋川駅です。当時は阪急芦屋川停留所と呼ばれていたようです。1957年には現在のように道路と立体交差の駅になりました。モロクロの写真はネットから転用させていただいたものです。右の駅舎の写真は昭和初期に撮られたため大正末期に創業した牛肉の佃煮で有名な芦屋軒は駅舎の奥(西側)1分に建っていたいたことになります。
クリックすると拡大この芦屋川の種別などは次の通りです。
 水系 二級水系 芦屋川
 種別 二級河川
 延長 8 km
 水源 六甲山(兵庫県)
 河口 大阪湾(兵庫県)
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少し離れて芦屋川駅を撮りました。
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上の写真と同じ場所から海方向を撮った写真です。今は遥か沖合まで埋め立てられていていますが、とりあえずは私が高校に通っていた時代の海岸だった位置まで歩いてみることにいたしました。阪急芦屋川駅から昔の海岸までにある線路と主要道路は北から順番に次の通りに並んでいます。この写真に写っている橋は月若橋です。現時点で名前の判らない歩道橋の名称を教えていただけたら幸いです。東京駅から神戸駅までの在来線を東海道本線と呼びます。ちなみに山陽本線は神戸駅から門司駅までです。
 阪急電鉄・神戸線      鉄橋+駅
               月若橋
               芦屋川隧道(トンネル)
               大正橋
 JR東海道本線       トンネル
 国道2号線         業平橋
               公光橋
 阪神電鉄          鉄橋+駅
               歩道橋(名前は平田橋
 国道43号線 阪神高速道路 芦屋川橋
              (永保橋 今は無き橋 1938年に流失)
               鵺塚橋
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芦屋川駅から2本目の橋(大正橋)の中央から山側を撮った写真です。見えている山は六甲山です。
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カメラのズームいっぱいに拡大いたしました。見えている橋は月若橋です。六甲山(六甲山系)は約1億年前(中生代白亜紀)に地下深くで出来た花崗岩が100万年前(第四紀)からの六甲変動と呼ばれる地殻変動によって隆起して出来たそうです。現在も変動が続けているそうです。
緑に覆われているように見えますが六甲山は風化花崗岩で出来た地質のため多くの場所で地表の草木が除かれ土壌が露出して、雨によって崩壊しやすい山でもあります。
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同じ場所からの海側の景色も紹介します。
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ズームいっぱいに拡大いたしました。上の写真では教会の尖った屋根が小さく写っていますが、こちらの写真でははっきりと形が判ります。川は少しだけ右に曲がっていますが、ほぼ一直線なのが六甲山から海に流れるすべの川の特徴なのです。この場所だけ石組の川底になっていて、その先は滝のような落差で水が流れ落ちる構造になっているのです。実は、石組みの川底の下にJR山陽本線が通っているのです。それは六甲山から海に流れる川のもう一つの特徴からこのような構造になっているのです。それは周辺の地域の地面より川の方が標高が高い天上川と呼ばれる川だからです。太古の時代から大雨の時に六甲山から流れ出た土砂がつもって徐々に高くなってきたのです。沢山の人が住むようになってからは山の中に沢山の砂防ダム作られて災害を防いでいるのですが、神戸市の方の川では昔(私が生まれる前と神戸に住む前)に鉄砲水と呼ばれる現象によって、被害が出たことがあることは聞いたことがありました。芦屋川でも戦前の1938年に大きな被害が出たそうです。その時、六甲山周辺全体で5,732戸住宅が全壊(流失・倒壊・埋没)し715名が亡くなり、130ケ所の橋梁が喪失し、109,370戸の住宅が浸水し、8,630戸 の住宅が半壊したそうです。そのため翌年の1939年から六甲山の砂防事業は国の直轄事業に移って今日に至っているそうです。車が沢山写っている橋は国道2号線です。
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JR東海道線が芦屋川の下にトンネルが通っている部分の下流側から撮った写真です。この写真は今回ではなく2014年10月にケーキを買いに行った時に撮りました。この時は川の中央まで草が生い茂っていました。
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クリックすると拡大右は蒸気機関車が芦屋川の下のトンネ ルを走っていた時代の写真です。下は現在の川の下のJR東海道線のトンネルです。川底を支えている沢山のコンクリートの支柱を確認してもらえると思います。川の下のトンネルと言うよりは川が橋になったというイメージです。
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国道2号線の橋(業平橋)から撮った海側の写真です。
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ズームで拡大いたしました
2本目のクリーム色の橋のように見えているのが阪神電鉄の鉄橋です。阪急と同じように川の上が橋になっています。高い高架は阪神高速道路です。
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国道2号線から山側を撮りました。
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阪急・芦屋川駅から国道2号線までは川の西側の道を歩いていますが、ここからは東側の道を歩いて海方向に向かいました。
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芦屋川に生息して動物たちを紹介した看板が立てられていました。
カワムツとカワヨシノボリとカワセミとウナギです。高校時代にカワヨシノボリは何度も獲りました。1度だけですが大きなウナギを獲ったことがあり、私が入っていた生物部の部室として使っていた部屋の水槽で長く飼っていました。小魚が沢山泳いでいたので、それがカワムツだったことを今回初めて知りました。芦屋川でカワセミを見たことがなかったことから、今回初めて芦屋川にカワセミが住んでいることを知りました。
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阪神電鉄に一番近い橋から撮った山側の写真です。
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恒例通り拡大いたしました。
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阪神電鉄を潜ってから川に下りて阪神電鉄の駅を撮りました。川の中には側道ががあり散歩をしている方が沢山おられました。
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阪神・芦屋川駅の写真を拡大いたしました。電車が停車していました。
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海側を見ると高架道路がありました。高架道路は阪神高速道路3号神戸線です。その真下にある橋が国道43号線です。
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阪神高速道路3号神戸線(1961年制定)と国道43号線(1953年制定)を拡大いたしました。国道43号線の橋の名前は芦屋川橋です。
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国道43号線の橋の下です。沢山の重量車両が通過する主要道路だと実感させられました。
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国道43号線の橋の下からの海側の景色です。
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川の中央に下りてみました。国道43号線の橋の下です。
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きれいな水が流れていました。私が高校生時代も水質は良くて、クリックすると拡大クリックすると拡大きれいな川にしか住めない右の写真のプラナリアが生息していました。ただし阪急電鉄線より上流側で獲っていました。ここでも住めそうな感じでしたが、時間の関係もあり確認はしませんでした。
プラナリアは非常に高い再生能力を持つ扁形動物で生物の実験などに使うために獲っていたのです。
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動画でも水の流れを紹介します。
https://youtu.be/D0eFYHZGFFs


永保橋という名のバス停がありました。ただし、永保橋は今はありません。1938年7月3日から7月5日にかけて発生した阪神大水害で流失してしまったそうです。古い地図で確認すると国道43号線の芦屋川橋の場所にあったようです。その永保橋の石柱が見つかった記事が2018年7月3日の朝日新聞に掲載されていたそうです。隣の神戸市で「昭和の3大水害」と呼ばれた次の水害の中で、芦屋川が大きな被害を受けたのは1938年の時だそうです。芦屋川の水害の詳しいことは判りませんが、六甲山の南側の河川はいずれも短いため鉄砲水と呼ばれる現象で大きな被害が発生したようです。そのために上でも記載しているように沢山の砂防ダムが建設されました。記載している人数は死者+行方不明者で、戸数は住宅の全壊+流失数です。数値は兵庫県(全国合計)で表示しています。1938年の被害は全て六甲山周辺(神戸市、芦屋市、西宮市、宝塚市)です。その中でも神戸市の被害が人命95%/住宅89%を占めていました。
 1938年 昭和13年阪神大水害  715名(715名) 5732戸(5732戸)
 1961年 昭和36年梅雨前線豪雨  41名(357名)   ? (1758戸)
 1967年 昭和42年7月豪雨    100名(369名)  363戸( 901戸)
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さらに海側に歩いて山側を撮った写真です。高架道路が阪神高速道路です。
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今はなき永保橋の一つ下流にかかっている鵺塚橋(ぬえづかばし)です。クリックすると拡大難しい呼び名の橋ですが、橋の近くにぬえ塚と書かれた右の写真の石碑があるそうです。石碑の「え」の部分には漢字の「江」が元となる変体仮名( クリックすると拡大)が使われています。ちなみに石碑の中の「あしや」の中の「や」にも「屋」から変形した変体仮名( クリックすると拡大)が使われているようです。
クリックすると拡大(ぬえ)は、頭は猿、胴体は狸、手足は虎、尾は蛇の妖怪で、京都で退治されたとされていて死骸を埋めた場所も謎ですが、それがこの芦屋の鵺塚だそうです。ただし鵺塚は京都と大阪にもあるそうです。京都の鵺塚は古墳時代の墳墓と判明しているそうでクリックすると拡大す。
一つの説は江戸初期の地誌「蘆分船」を根拠にしたもので、鵺の死骸は悪疫を招くということで退治された京都から丸木船で川に流されて、大阪の都島に漂着し土に葬られ祠が建てられたと言い伝えられています。もう一つの説は「平家物語」を根拠にしたもので、一旦は豊島に着きましたが、その都島から悪疫を嫌い更に舟で死骸を流した結果、芦屋の浜に漂着し、ここの人々が祟りを恐れて丁寧に葬ったのが、この鵺塚がある地だそうです。古くて有名な平家物語を根拠にしているので、芦屋説は重みがあるように感じます。右上の鵺塚の写真はネットから転用させていただきました。阪急芦屋川駅から1つの歩道橋を含んで7つ目の橋で、これより先には橋がないので芦屋川最下流の橋になります。
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川の中には何か所にも渡石がありました。
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渡石を使って東側から西側にわたりました。渡石から撮った写真です。
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渡石で西側に渡って海側を撮った写真です。海の上に道路が走っています。
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やっと昔の海岸線近くまで来ました。
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上の写真から昔の海岸線の位置を拡大いたしました。この場所は思い出の場所でもあるのです。今は埋め立てられて陸が見えますが、昔は人の立っている先は海しかありませんでした。写真の下の方に小さく鳥が写っています。
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近づいて鳥を拡大してみました。白鷺だと思われますが、他の地域の白鷺と違い近づいても恐れることもなく逃げることもありませんでした。河口にはウミウと思われる鳥が何度も潜っていました。
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旧海岸線の芦屋川の河口から撮った写真です。画面いっぱいに海が広がっていた昔の景色を想像してみてください。二人の女性が水の中をのぞき込んで何かを探していました。その横でワンちゃんが待っているのが印象的でした。海の上の高架道路は阪神高速5号湾岸線(1991年開通)です。
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ワンちゃんを拡大いたしました。
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旧河口から山側を撮った写真です。
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ここが私が高校生時代の海外線の位置です。そして上の方で紹介したように思い出の場所でもあったのです。
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上の写真の場所で卒業アルバムの写真を撮った場所だったのです。背景に写っているのが打ち出浜です。今は無くなりました。黄色の丸印が私です。
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動画でこの辺りの景色を紹介します。この後、埋め立て地を歩いて現在の海岸線まで行きました。そちらは次の記事で紹介したいと思います。
https://youtu.be/mP28LYvtEV8


このGoogle地図で芦屋川(━━)と、昔(私の高校生時代)の海岸線(━━)を紹介します。海岸の名前は打出浜(芦屋浜)でした。空色マーク( )が以前に紹介したマミズクラゲが発生した県立芦屋高等学校(芦屋高校 / 芦高 / 県芦)の池の場所です。右の細長い地図で阪急より下流側の橋名を紹介します。現時点で歩道橋の名前だけは判りません。
 ━━ 芦屋川
 ━━ 私の高校生時代の海岸線(打出浜)
  阪急・芦屋川駅
  阪神・芦屋駅
  鵺塚
  卒業記念写真の撮影場所
  飲み会の場所 大地
  JR・芦屋駅
  県立芦屋高等学校


旧海岸線の沖合を埋め立てたばかりの頃の航空写真を紹介します。
クリックすると拡大この時の更地部分(芦屋浜)の大部分は右の写真のような住宅地になりました。平成5年ごろからは、さらに沖合を埋め立てて人工島(南芦屋浜)を作る工事も始まりました。人工島が完全に完成したのは平成9年1月でした。南芦屋浜は潮芦屋とも呼ばれています。
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今後の教訓のために80年前の1938年の阪神大水害時の芦屋市内の写真をネットから転用させていただきました。上側と左下の3枚の写真は松ノ内町付近で、4枚目の写真は3mの深さの泥水に埋まった国鉄線路です。皇軍萬歳の看板が太平洋戦争に入る3年前という時代を感じさせてくれます。
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上流から流れてきた流木や土砂が1枚目の写真の阪急の鉄橋によって堰き止められて右の図のように濁流が左右の堤防をこえ、東西両方向にあふれ出て、そこから海岸まで流れていったそうです。2枚目の写真は阪急芦屋川駅北側で、3枚目の横長の写真は国道2号線が通っている業平橋付近です。
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タグ:芦屋
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イオラニ宮殿(ʻIolani Palace) [ハワイ]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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結婚式が行われていたカワイアハオ教会を出た後はイオラニ宮殿を目指しました。すぐ近くにありながら、歩いている人に聞いてもいろんな方向を言われました。やっと数人目の人が指さした方向にイオラニ宮殿を確認出来ました。木々の中に建物が確認できたのです。

写真を撮っていなかったのでカワイアハオ教会の前の交差点からイオラニ宮殿方向をみたGoogleストリートビューを紹介します。正面の大きな木の幹の間にイオラニ宮殿の建物が僅かに見えました。確認が出来たので道路の横断歩道を渡ってイオラニ宮殿に向かいました。


イオラニ宮殿(ʻIolani Palace)の正面方向(南西方向)の門です。この門はイオラニ宮殿から出る時に撮りました。敷地内に入ったのは南東方向の門です。
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門に取り付けられていたハワイ王国の紋章を拡大いたしました。下に書かれている文字「UA MAU KE EA O KA AINA I kA PONO」はハワイ語でです。意味は「この地の生命は正義によって維持される / The life of the land is perpetuated in righteousness」だそうです。正確なハワイ語だと「Ua Mau ke Ea o ka ʻĀina i ka Pono」になるようです。ハワイ王国は無くなりましたがこの構図はハワイ州の紋章に使われているなどハワイ王国は今でもみんなの心の中に生きているのだと思います。
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南東方向の門から入った景色です。イオラニ宮殿の側面が見えました。
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イオラニ宮殿に近づきました。
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イオラニ宮殿の中に入るためのチケットを買った建物です。日本語ガイドも頼みました。こちらの建物は昔の宮殿兵舎でイオラニ・バラックス(ʻIolani Barracks)と呼ばれています。
クリックすると拡大1870年に建てられ王制が崩壊した1893年まで約80人の警備兵がいたそうです。カワイアハオ教会と同じくサンゴの岩のブロックの外壁で出来ていて米国の重要文化財の一つです。右の写真はWikipediaから転用させていただいた当時のイオラニ・バラックスです。
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こちらが冒頭の写真で紹介したイオラニ宮殿(ʻIolani Palace)の正面です。ハワイ王国7代目カラカウア王の命で 1882年に建てられた宮殿です。王制が崩壊した1893年までの11年間に宮殿として使われました。王制廃止後は1969年まで行政府として使用されたそうです。現在の宮殿の維持・管理はハワイ王家を継承している財団の中の人が中心になったボランティア団体が行っているそうです。我々が来た時は半旗でした。
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建物全体のイメージを感じていただくためにgoogleの3D航空写真でイオラニ宮殿を紹介します。ストリートビューでも見ることが出来ます。


日本語ガイドが付いた宮殿内の見学ツアーは10人程度でした。宮殿の北東方向の階段を上がって2階の入口から入りました。入ってすぐの内部の写真です。


こちらは2階から3階に上がる階段です。豪華な造りでした。豪華な調度品も沢山並んでいました。
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ハワイ王国は日本との関係が強かったことをうかがわせる調度品も沢山クリックすると拡大クリックすると拡大ありました。こちらは天皇家から贈られたと思われる菊のご紋が付いた壺です。この菊の紋章は八重菊を図案化した菊紋で十六八重表菊と呼ばれているそうです。日本から移民第1号の153名がハワイに渡ったのが1868年(明治元年)で、イオラニ宮殿を建てたカラカウア国王が世界一周旅行の最初の訪問国の日本に訪日し赤坂離宮で明治天皇と会談したのが1881年でした。その時にカラカウア国王から国王の姪で王位継承者のカイウラニ王女と山階宮定麿親王との縁組を提案したそうですが、明治天皇が丁重に断った為に幻に終わったそうです。その提案の背景にはその時代のアメリカ帝国主義によるハワイ王国の危急存亡を感じていたと想像されています。
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中央のホールの両側には沢山の部屋がありました。
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床を傷つけないために入口でカバーを履きました。
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豪華な部屋が並んでいました。
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それらの部屋を紹介します。
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こちらは食堂のようでした。
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王家の紋章の入ったガラスの壺も置かれたてました。
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東二を再現した食卓の上を紹介します。
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さすが宮殿という感じでした。
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3階には古いエレベーターで上がりました。3階のロビーです。こちらは下に降りる階段です。
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シャンデリアが吊り下げられた部分がステンドクラスの天窓になっていました。
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窓からの外の景色です。
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驚いたことに料理や食器用のリフト(エレベーター)もありました。
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部屋は見事な調度品でかがられていましたが、王政崩壊後に豪華な家具や調度品の多くは売られるなどして無くなったそうです。
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現在はそれらを見つけ出して買い戻して宮殿内の元の場所に戻す地道な活動が続けられているそうです。
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このような当時の写真を使って家具や調度品を探し続けているそうです。
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お陰で当時の調度品を見ることが出来るのです。こちらのベッドカバーはカラカウア王のベッドにかけられたキルトだそうです。
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宮殿の四隅の間にはコーナー側に小さな部屋が作られていました。
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いろんなタイプの部屋がありました。ここは執務室でしょうか。当時の雰囲気を再現しているようです。
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勲章も並べられていました。
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当時の書類(または手紙)も並べられていました。
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エジソンが電球を実用化したのは1879年ですが、それを採用したのです。イギリスの当時のバッキンガム宮殿にさえ無かった電気設備を備えていたそうです。
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1877年に実用化された電話機も設置されていました。ハワイ王国には驚かされることが多くありました。
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このような浴室も沢山の居間に設置されていました。当時としては先進的な設備に囲まれていたようです。
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沢山の部屋を案内してもらい説明をしてもらいました。
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当時、王宮で行われたフラダンスの写真も展示されていました。
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当時のイオラニ宮殿の写真も掲載されていました。
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こちらは王妃の寝室でしょうか。豪華なベッドが置かれていました。
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カピオラニ王妃の写真でしょうか。
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違う角度から紹介します。ベッドカバーはカピオラニ王妃のベッドに掛けられていた本物だそうです。
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最も圧巻だった部屋を紹介します。一番手前のドレスが世界で最も豪華なドレスです。
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すでに絶滅したオーオー(ʻOʻO)と呼ばれる黒色の鳥に僅かに生えている黄色い羽根で飾られたドレスです。これだけの羽根を集めるだけで何10年も必要だそうです。ハワイの王族だけが着ることが出来たドレスです。
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ここに王や王妃が座ったのだと思います。椅子の左右には先端が鳥の羽根で飾られた棒であるカヒリ(kahili)が立てられています。
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その椅子を拡大いたしました。
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王冠なども飾られていました。
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これは王政最後の頃にハワイ王国最後の君主であるリリウオカラニ女王が幽閉中に製作した有名なクレイジーキルトです。
これにも沢山の物語がありました。
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クレイジーキルトの一部を拡大いたしました。イオラニ宮殿は1795年からの98年間続いたハワイ王朝の最期の舞台でもあったのだと実感させられました。
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エレベーターで一階に降りると使用人たちの仕事場と思われるばしょがありました。このリフトで料理を上の階に運んだそうです。
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この場所にかまどがあったのでしょうか。銅板で囲まれていました。
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作業机だったのでしょう。
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1階には宝石などの装飾品も展示されていました。最も豪華だったのがダイヤモンドで作られた蝶のブローチでした。



1階にはこのような部屋もありました。
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1階の廊下です。いろんな写真が置かれていました。
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Google地図の航空写真でイオラニ宮殿を紹介します。小さな写真はカワイアハオ教会とカメハメハ大王像です。
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 カワイアハオ教会
 カメハメハ大王像
 アリイオラニ ハレ


追伸
2018年10月19日から関西に行きます。帰ってくるのは10月30日の予定です。その間にネットが使えるのは1日に30分程度のため、皆様のところへの訪問が出来ないことをお許しください。
タグ:ハワイ 宮殿
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