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千波湖の対岸の気になる建物 [水戸]



本記事が2013年3月に茨城県の水戸に行ったときの最後の報告となります。
千波湖の湖岸を散策しているとき対岸に気になる建物がありました。立派な建造物なので行ってみることにしました。

近づいてみると、やはり和風建築群でした。大きな建物なので有名な建物ではないかとさらに近づきました。


実は映画「桜田門外ノ変」の見せ場である桜田門外襲撃シーンのために約2億5000万円の巨大オープンセットが、ここ千波湖湖畔に建てられたのでした。そのオープセットをテーマパークとして残した記念施設だったのです。この施設は2013年3月31日で閉鎖されたので今は見ることが出来ません。映画の撮影後、立派なオープンロケセットであったことから1 年間の予定で公開されましたが延長され2013年3月31日をもって閉館となったそうです。3年間 で31万6728人が訪れたそうです。興味を魅かれて入場券500円を買って中に入ったので私も31万6728人の中の1人となりました。
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映画の公開は2010年10月16日で初日2日間で興収9172万6200円、動員は8万390人になり、映画観客動員ランキングで初登場第6位となったそうです。今までにオープンセットをみたことはありませんでしたが、1シーンだけのために、これだけのオープンセットが作られたのには驚きでした。


クリックすると拡大雪のシーンを撮るために白い砂が70トンも地面に敷かれたそうです。そのため砂用の車イスもありました。桜田門外の変は、安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城桜田門外において水戸藩、薩摩藩の脱藩浪士が彦根藩の行列を襲撃して、大老・井伊直弼を暗殺した事件です。


撮影シーンのパネルの写真です。この撮影場面では地元の約400名の方がエキストラとなって参加されたそうです。


下の写真は映画の撮影に使われて衣装です。出演者は次の通りです。
 大沢たかお  (関鉄之介)   - 水戸藩士 襲撃の現場指揮者
 長谷川京子  (関ふさ)     - 鉄之介の妻
 柄本明     (金子孫二郎) - 水戸藩南郡奉行 襲撃を企てる一人
 生瀬勝久   (高橋多一郎)  - 水戸藩奥右筆頭取 襲撃を企てる一人
 渡辺裕之   (岡部三十郎)  - 水戸藩小普請。井伊直弼襲撃の見届け役
 加藤清史郎  (関誠一郎)   - 鉄之介の息子
 中村ゆり    (いの)      - 鉄之介の江戸の愛人
 渡部豪太   (佐藤鉄三郎)  - 水戸藩士 襲撃参加
 須賀健太   (高橋荘左衛門) - 多一郎の息子 藩校・弘道館諸生。襲撃参加
 本田博太郎  (桜岡源次衛門) - 常陸国袋田村の大庄屋。鉄之介をかくまう
 温水洋一   (与一)       - 源次衛門の使用人
 ユキリョウイチ (稲葉和則)    - 鳥取藩剣術指南
 北村有起哉  (安藤龍介)    - 水戸藩士
 田中要次   (稲田重蔵)    - 水戸藩士 襲撃に参加する
 坂東巳之助  (有村次左衛門) - 薩摩藩士 襲撃に参加、井伊にとどめを刺す
 永澤俊矢   (西郷吉之助)   - 薩摩藩士
 池内博之   (松平春嶽)    - 福井藩第16代藩主
 榎木孝明   (武田耕雲斎)   - 水戸藩士 斉昭の側近
 西村雅彦   (野村常之介)   - 水戸藩北郡奉行
 伊武雅刀   (井伊直弼)    - 彦根藩第15代藩主 江戸幕府大老
 北大路欣也  (徳川斉昭)    - 水戸藩前藩主(第9代)
 志村東吾、緒形幹太、松本寛也、颯太、福井晋、平塚真介、須賀貴匡、近藤公園
 中山麻聖、綱島郷太郎、津村鷹志、河原崎建三、川野太郎、松尾伴内、福本清三
 深水三章、並樹史朗、モロ師岡、三田村賢二、妹尾正文、田鍋謙一郎、沢井小次郎
 谷川昭一朗、佐久間哲、西田有沙、池口十兵衛、伊集院八朗、小峰隆司
 木谷邦臣、峰蘭太郎、など


偕楽園に戻ってきてあらためてオープンセットを撮りました。2013年3月末までは見えていたいた景色ですが、夏の「水戸黄門まつり」までに、ロケセットを取り壊すそうなので、もう見ることは出来ない景色なのです。


ネットで書かれていた「桜田門外の変」の襲撃の状況を紹介いたします。
安政7年3月3日(1860年3月24日)の早朝、浪士一行は決行前に訣別の宴を催して一晩過ごした東海道品川宿の旅籠を出発した。一行は東海道に沿って進み、愛宕神社で待ち合わせたうえで、外桜田門へ向かった。現地に着いた襲撃者たちは、武鑑を手にして大名駕籠見物を装い、井伊の駕籠を待った。
当日は季節外れの大雪で視界は悪く、護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄に袋をかけていたので、襲撃側には有利な状況だった。また、江戸幕府が開かれて以来、江戸市中で大名駕籠を襲った前例はなく、警護は薄かった。もっとも、井伊のもとには以前より警告が届いていたが、護衛の強化は失政の誹りに動揺したとの批判を招くと判断し、あえてそのままに捨て置いた。登城する井伊の駕籠は、彦根藩の藩邸上屋敷を出て、内堀通り沿いに江戸城外桜田門外に差し掛かり、そこで浪士たちの襲撃を受けた。
駕籠が近づくと、まず前衛を任された水戸浪士・森五六郎が駕籠訴を装って行列の供頭に近づき、取り押さえに出た彦根藩士・日下部三郎右衛門にやにわに斬りかかった。こうして護衛の注意を前方に引きつけた上で、水戸浪士・黒澤忠三郎(関鉄之介という異説もある)が合図のピストルを駕籠めがけて発射し、浪士本隊による駕籠への襲撃が開始された。
発射された弾丸によって井伊は腰部から太腿にかけて銃創を負い、独自に修錬した居合を発揮すべくもなく、動けなくなった。襲撃に驚いた丸腰の駕籠かきはもちろん、藩士の多くも算を乱して遁走した。残る数名の供侍たちは駕籠を動かそうと試みたものの、銃撃で怪我を負った上に襲撃側に斬りつけられ、駕籠は雪の上に放置された。護衛の任にある彦根藩士たちは、ベタ雪の水分が柄を濡らし刀身が湿るのを避けるため、両刀に柄袋をかけており、銃創と鞘袋が邪魔してとっさに抜刀できなかった。このため、鞘のままで抵抗したり、素手で刀を掴んで指や耳を切り落とされるなどした。
こうした不利な形勢の中、二刀流の使い手として藩外にも知られていた彦根藩一の剣豪・河西忠左衛門は、冷静に合羽を脱ぎ捨てて柄袋を外し、襷をかけて刀を抜き、駕籠脇を守って浪士・稲田重蔵を倒すなど、さらなる襲撃を防いだ。同じく駕籠脇の若手剣豪・永田太郎兵衛も二刀流で大奮戦し、襲撃者に重傷を負わせた。しかし、河西が斬られてたおれ、永田も銃創がひどく闘死した。
もはや護る者のいなくなった駕籠には、次々に襲撃者の刀が突き立てられた。さらに、有村次左衛門が荒々しく駕籠の扉を開け放ち、虫の息となっていた井伊の髷を掴んで駕籠から引きずり出した。井伊は無意識に地面を這おうとしたが、有村が発した薬丸自顕流の「猿叫」とともに、振り下ろした薩摩刀によって斬首された。襲撃開始から井伊殺害まで、わずか数分の出来事だったという。

残念 梅酒大会の前日でした。 [水戸]



ゴルフと水戸散策のために2013年3月7日~8日と水戸に行きました。3月7日に偕楽園の梅を見に行ったのですが、偕楽園の隣にある常磐神社の境内で水戸の梅まつり梅酒大会2013梅酒の全国大会である「水戸の梅まつり梅酒大会2013」の準備をされていました。2013年の梅酒大会は3月8日~10日でした。なんと梅酒大会の前日だったのです。

常磐神社(ときわじんじゃ)は徳川光圀(第二代藩主)と徳川斉昭(第九代藩主)を祀るために明治6年(1873年)に創建された神社です。徳川斉昭は偕楽園や弘道館を作った名藩主です。その常磐神社の境内に建てられた梅酒大会のテントの外側には出品される梅酒の写真付きの説明が沢山張られていました。これを見て事前に飲む梅酒を決めるのも良い方法だと思います。
今回の「水戸の梅まつり梅酒大会」は東日本初の梅酒大会だそうです。これから毎年続けは第1回ということになり期待しています。ちなみに梅酒大会としては「大阪の天満天神梅酒大会」があり、そこは今年が第7回だそうです。 
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すごい数の梅酒でした。自由に見学させていただきました。
大会コンセプトは「一般参加の方には梅酒をお好きなだけ試飲していただき投票をして頂きます。」とのことなので入場料600円(前売500円)で、この梅酒が飲み放題なのです。
この日は車ではないし、この日は近くで泊まるので梅酒を飲むには絶好の日でしたが、残念ながら大会の前日だったわけです。飲めないとなると、ますます飲みたくなります。
ネットで調べてみると全国93社から157種類の梅酒が出品されました。この時点で3本づつ並んでいるので471本並んでいることになります。壮観でした。当然ですが3日間で、この数倍の梅酒が飲まれたと想像できます。
この写真は是非ともクリックしてみてください。
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一般投票で上位10銘柄が選ばれた後に、トップクラスのソムリエの方など7名の審査員によってブラインド・ティスティングが行われて10銘柄の中から1~3位が決定する方式です。ネットで確認した大会の結果は下記の通りです。この中で一般賞と書いているのは一般投票一位の梅酒です。特別賞の内容を知りたい方はホームページで確認願います。赤色の梅酒は一般投票で選ばれた10銘柄です。値段は720mmに換算した価格です。どろっと梅酒は価格が書かれていませんでした。
     第一位       第二位    第三位   一般トップ
一位二位三位得票一位
 第一位 茨城県  百年梅酒プレミアム      3150円 明利酒類(株)
 第二位 和歌山県 紀州のゆず梅酒        1050円 中野BC(株)
 第三位 奈良県  どろっと梅酒        不明   (株)北岡本店
 一般賞 福島県  うめとろ          2000円 奥の松酒造(株)
 特別賞 茨城県  木内梅酒             木内酒造合資会社
 特別賞 大分県  樽仕込 高級梅酒 ゆめひびき    (株)おおやま夢工房
 特別賞 北海道  国士無双梅酒             髙砂酒造(株)
 特別賞 福岡県  杉能舎ヨーグルト梅酒         浜地酒造(株)
 特別賞 福岡県  あまおう梅酒 あまおうはじめました。  (株)篠崎
 特別賞 兵庫県  白鶴 ぷるぷる梅酒          白鶴酒造(株)
 特別賞 茨城県  梅酒くまんばち とろ梅         明利酒類(株)
 特別賞 和歌山県 紀州の梅酒 古城の煌めき        中田食品(株)
ちなみに今年の「大阪の天満天神梅酒大会」の一般投票で選ばれた10銘柄は、水戸の10銘柄とは全く違う結果でした。実力は拮抗しており梅酒が並んでいる順番やその他の条件が影響しているのかもしれません。
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本番の梅酒大会を見れなかったのでネットから拝借した写真を紹介します。すごい行列で約3300人が来場されて大盛況だったそうです。600円 or 500円で好きなだけ梅酒が飲めるのですから当然と言えば当然ですね。さらに右上の写真の水戸の梅大使の方々も沢山来られて華やかだったと思います。2013年水戸の梅大使の方々の名前を紹介いたします。下の写真群をクリックすると水戸の梅大使の方々が登場されると思います。
長谷川和奏さん 田辺真理さん 小峰華子さん 岩間莉沙さん 倉持恵理さん
高岡亜弥乃さん 沢畑順子さん 箕輪友美さん 藤澤理恵さん 山本千尋さん
水戸の梅大使

113年前の姿をみせてくれる旧水戸農業高等学校 [水戸]


写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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水戸の茨城県立歴史館敷地内にある旧水海道小学校本館を紹介いたしましたが、おなじ茨城県立歴史館敷地内に旧水戸農業高等学校を立っていました。今回の建物の写真はすべてクリックすると拡大するように設定いたしましたので気になった写真があれは、是非ともクリックしてみてください。

水海道小学校本館は遠く常総市水海道から移設されてきたものですが、この水戸農業高等学校本館はもともと歴史館の敷地に1900年(明治33年)から1970年まで,茨城県立水戸農業高等学校の本館として使われていました。
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クリックすると拡大旧水海道小学校本館は洋館でしたが、こちらには純日本建築ですが、左右対称で車寄せがあるところは洋館を意識したものかもしれません。
この建物は1900年に創建し1970年の茨城県那珂市に移転するまでまで70年間、使われました。建物が使われなくなったことから同じ歴史館敷地内ですが違う場所に1975年10月に移築・復元されました。通常は外観のみの公開ですが、講座室として各種ワークショップなどに利用されているそうです。
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旧水戸農業高等学校の横には運動場があり子供たちが遊んでいました。木造の学校の横で子供たちが遊ぶ姿は、昔を思い起こさせる風景です。


水戸農業高等学校の沿革です。
 ・1895年~1900年 水戸市南三の丸
 ・1900年~1970年 水戸市緑町(現・歴史館敷地)
 ・1970年~現在   那珂市東木倉
 1895 明治28年 4月26日 茨城県中央農事講習所として 水戸市南三の丸に創設
 1896 明治29年 4月 1日 茨城県簡易農学校に校名変更
 1899 明治32年 5月 7日 茨城県農学校に校名変更
 1900 明治33年 6月13日 水戸市緑町の新校舎に移転 (現・歴史館敷地)
 1901 明治34年 5月30日 茨城県立農学校に校名改称
 1923 大正12年 4月 1日 茨城県立水戸農学校となる
 1948 昭和23年 4月 1日 茨城県立水戸農業高等学校となる
 1950 昭和25年 4月 1日 石塚分校設置 茨城県東茨城郡城里町
 1963 昭和38年 4月 1日 石塚分校独立常北高等学校となる
 1970 昭和45年 2月18日 那珂市東木倉(現在地)に建物竣工全校移転完了
 1975 昭和50年10月    創建当時の姿に本館を移築・復元

 1987 昭和62年 4月 1日 農蚕科募集停止
 1989 平成 1年 4月 1日 農業経済科新設
 1992 平成 4年 4月 1日 生活科募集停止 生活科学科新設
 1995 平成 7年 11月 7日 創立100周年記念式典
 2005 平成17年 11月 9日 創立110周年記念式典(県民文化センター)


航空写真でも旧水戸農業高等学校を紹介します。写真上のアイコンマイナスを数回クリックすると茨城県立歴史館や旧水海道小学校本館もわかると思います。

歴史館敷地内には、趣のある灯篭のような石柱がありました。これは六地蔵石憧(ろくじぞうせきどう)で、室町時代後期に花崗岩で作られたもので183cmの高さがあります。
憧(はたぼこ)は寺院の堂内の柱にかけた旗の一種で、石憧はこの憧を六枚組合せ、龕部(がんぶ)には六地蔵が浮彫りされており、県内に存在する多くのものが灯篭型となっているそうです。こちらの六地蔵石憧は茨城県指定文化財です。


こちらの建物が茨城県立歴史館です。大きな建物ですが広い敷地に建っていました。


茨城県立歴史館の展示室は写真撮影が出来ませんが、ロビーはOKとのことなので雰囲気を紹介したいためロビーの写真を掲載いたしました。


千波湖は鳥の楽園 [水戸]



偕楽園の南東方向には大きな湖が広がっています。千波湖(せんばこ)です。一つの景観をを見せてくれます。

千波湖と桜川は水戸城の南側の外堀の役目を果たしていたそうです。面積は約332,000m²、湖の周回は3,000m。並木もありジョギングや散歩のコースとして親しまれている。堀のような部分が桜川で千波湖外周園路(ジョギングコース)によって千波湖と分離されています。上流(手前)に行くと桜川緑地があります。


昔の千波湖は水戸城の本丸の南東方向まで広がっておりさらに広い湖でした。主に昭和期の埋め立で狭くなったそうです。水色の部分が現在で薄紫色の部分が干拓前の千波湖です。江戸時代の後期に出された「水府志料」によれば、当時の千波湖の面積は約1,275,000m²(386,364坪)であったことから現在の3.84倍の面積があったことがわかります。この地図はSENBA LAKE OFFICIAL WEB SITEから拝借いたしました。


偕楽園から千波湖に降りると黒鳥(コクチョウ)が出迎えてくれました。黒鳥(コクチョウ)は南半球(オーストラリア固有種)の鳥なので、日本に渡ってくることはありえないので飼われている鳥です。すごい数の黒鳥でした。もしかしたら千波湖は"日本で黒鳥が最も多い湖"なのかもしれません。


こちらはガチョウ(鵞鳥)とハクチョウ(白鳥)です。千波湖ではコブハクチョウが沢山生息していると書かれていたので、この白鳥もコブハクチョウという種類のようです。ただしコブがある方が左のガチョウでこれはシナハクチョウに似ています。どちらも人懐っこくて人間を見ると近づいてきます。
白鳥の種類はコブハクチョウ、 コクチョウ、クロエリハクチョウ、オオハクチョウ、ナキハクチョウ、コハクチョウで日本に渡ってくる白鳥はオオハクチョウとコハクチョウだけのため、コクチョウ同様にコブハクチョウは飼われている鳥のようです。


カモも人に慣れていました。こちらは1mの距離が限度でした。千波湖の鳥たちというホームページ書かれていた鳥の名前は、コブハクチョウ、オオバン、キンクロハジロ、コクチョウ、カンムリカイツブリ、コガモ、バン、ホシハジロ、ミコアイサ、ユリカモメ、クイナでした。


かわいい鳥たちなので餌を与えている方を多く見かけました。湖畔には「自然な環境に生息させるために、餌を与えないでください。」と看板は立っていますが、餌やりは定着している感じでした。
餌の少ない冬に渡り鳥を守るために積極的に餌やりを行っている自治体も沢山あるほどで、さらに白鳥や黒鳥のように飼われている鳥が沢山ている千波湖では、餌やりに関しては賛否が、わかれるところです。子供の教育には看板を無視するのは好ましくないけれども、餌やりと鳥たちの数は相関関係で、この広い湖からみて適度に餌が与えられている感じで、今の状態でバランスとれている感じもしました。鳥たちに接することが出来て楽しかったです。湖畔のお店で餌を売っているくらいなので、気することでもなさそうでした。


遊歩道の脇では黒鳥たちが巣を作っていました。雛たちが沢山育っているそうです。


西側の湖岸から東の方向を見た千波湖の景色です。
遠くに見えるのは水戸の町です。


湖の真ん中にはいろいろと変化する噴水があり、時々きれいな姿を見せてくれました。西から水戸市内をバックにした噴水の姿を撮りたかったのですが、待ちきれなくて撮れませんでした。北側から撮った写真を紹介いたします。


あんこう鍋(どぶ汁) [水戸]



茨城県に来たら、やっぱりアンコウ鍋ですね。水戸に来て昼食は五鐵夢境庵でシャモの親子丼を食べたので夕食は、あんこう鍋を食べるために山翠を予約しました。

4人での夕食ですが、私は早めに来てしまったので、先に一人でビールをいただくことにいたしました。


お通しだけではさびしいのでビールの肴には奥久慈しやものタタキの小皿を頼みました。これでも小皿なのです。結局、メンバーがそろうまでにビールを二本ほど飲んでしまいました。お店を紹介します。
  店名 山翠 Sansui
  種類 郷土料理
  住所 茨城県水戸市泉町2丁目2番地40号
  電話 029-221-3617
  地図 http://goo.gl/maps/dD7b9
  営業 11:00~14:30 17:00~21:00
  定休 火曜日
  取材 テレビ東京 TBS フジテレビ


皆がそろったところで、さっそくあんこう鍋を頼みました。頼んだのは、どぶ汁と呼ばれるアンコウ鍋です。写真の大きなあんこうの肝をダシ汁にたっぷりと入れるのが、どぶ汁なのです。どぶ汁ではなく普通のあんこう鍋のダシにも肝と味噌を焼いたものが入れられるので、とぶ汁は特に肝が多いのだと思います。
コースではなく2人前の鍋単独を頼みました。コースではなく単独の鍋にしたのは、何度か水戸であんこう鍋のコースを食べたことがあるので、鍋以外は好きな料理を注文したかったからです。4人前ではなく2人前にしたのは、今回は飲むのが中心なので食べ切れないと思ったからでした。読みは正解でした。鍋単独とコースの値段を紹介いたします。ただし鍋は二人前からです。
コースには鍋以外に先付、お造り、あん肝ジュレ、あんこうの朴葉焼、香り物がついています。どぶ汁には雑炊がついています。どぶ汁でない場合は別料金で雑炊を頼みます。
  あんとう鍋 単独    3570円/一人前
  どぶ汁   単独    5775円/一人前
  あんこう鍋 コース   6983円/一人前
  どぶ汁   コース  10500円/一人前


IMG_5556-50.jpgどぶ汁に使われたあんこうの肝(あん肝)は、本当に大きかったです。これで二人前とは思えない大きさでした。この新鮮な生のあん肝をお鍋で乾煎りして味噌とだし汁を加えるそうです。右の写真がアンコウ(鮟鱇)です。アンコウは水深30m~500mの砂泥状の海底に生息し手足のように変形したヒレで海底を移動します。日本では、キアンコウ(ホンアンコウ)とアンコウ(クツアンコウ)が主な食用の種です。両種は別の属に分類されていますが、外見は良く似ています。そのため、一般に市場では区別されていません。外見的な特徴は頭部が大きく幅が広いく体は暗褐色から黒色で、やわらかく平らです。


野菜類です。ゴボウ、エノキ、春菊、白ネギ、白菜に二種類のコンニャクが入っていました。


こちらが鍋です。二人前とは思えない量がありました。あんこうの身もたっぷり入っていました。


鍋以外に注文した料理も少しだけ紹介します。この刺身コンニャクは格別に美味しかったです。これは食べてみないとわからない美味しさでした。このコンニャクも奥久慈のものだそうです。


あんこうのから揚げです。これ以外に奥久瀬しゃもの山椒焼きなど数種類頼みました。


そして最後は、どぶ汁の雑炊です。これは濃厚な雑炊で美味しかったです。不思議と肝が沢山入っているのに臭みはありませんでした。臭みを出さない秘伝の方法があるのだと思います。


水戸城址 水戸市立第二中学校 [水戸]


写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

水戸城は大きなお城でしたが、建物として残っているのは三の丸にあった藩校の弘道館の一部と県立水戸一高敷地内に移築復元された薬医門くらいです。クリックすると拡大ただし地形に関しては当時の影響を大きく残しています。この道路は昔の三の丸と二の丸の間の堀でそこに昔かかっていたのは大手橋です。橋の右側が二の丸で左側が三の丸で、三の丸には今でも弘道館の一部が残っています。そして右の階段を上ったところに右の写真の大手門がありました。

そして大手門が建っていたところには水戸藩の第一代藩主の徳川頼房(とくがわ よりふさ)の像が建てられていました。
この城の歴代の藩主です。(1609年以降はすべて水戸藩)
代  在任期間    名前  よみ  前藩主との続柄   備考
 1 1602 - 1603年 武田信吉 のぶよし 徳川家康の五男   武田藩
 1 1603 - 1609年 徳川頼宣 よりのぶ 徳川家康の十男   紀州藩
 1 1609 - 1661年 徳川頼房 よりふさ 徳川家康の十一男 水戸藩初代藩主
 2 1661 - 1690年 徳川光圀 みつくに 先代の三男     水戸黄門
 3 1690 - 1718年 徳川綱條 つなえだ 先代の甥
 4 1718 - 1730年 徳川宗堯 むねたか 先代の姪孫
 5 1730 - 1766年 徳川宗翰 むねもと 先代の次男
 6 1766 - 1805年 徳川治保 はるもり 先代の長男
 7 1805 - 1816年 徳川治紀 はるとし 先代の長男
 8 1816 - 1829年 徳川斉脩 なりのぶ 先代の長男
 9 1829 - 1844年 徳川斉昭 なりあき 先々代の三男 偕楽園・弘道館創設
10 1844 - 1868年 徳川慶篤 よしあつ 先代の長男
11 1868 - 1869年 徳川昭武 あきたけ 先々代の十八男


クリックすると拡大します。昔の建物は少ないけれども空堀などの景観は町の各所で見受けられました。右の写真はWikipediaから拝借した薬医門です。この門は、本城橋のたもとに建てられていた城門と推定されています。安土桃山時代の建築様式がみられ佐竹氏時代のものと考えられています。薬医門とは、門の建築様式の呼び名で扉を支えている本柱とその後ろにある柱で支えられた屋根の棟の位置を中心からずらす形式で側面の姿は対称形でありません。正面から見ると軒が深いため、門はゆったりとして威厳があり、大名の城門にふさわしいので多くつくられたそうです。今は本丸跡になる県立水戸一高敷地内に移築復元されています。


大手門跡のすぐそばには、ここが水戸城であったことを記した石碑が建てられていました。石碑には「茨城百景 弘道館 水戸城址」と書かれていました。
石碑の後ろのフェンスの近くのの看板の説明文には次のように書かれていました。説明文の写真をクリックすると拡大します。
クリックすると拡大茨城県指定史跡
水戸城跡(塁及び濠)
水戸城は平安時代の末期頃、常陸大掾国香の子孫馬場資幹がこの地に館を構えたことにはじまり、後に常陸大掾となって府中(現石岡市)に本拠を持ったことから、水戸地方も馬場氏のほかに吉田氏、石川氏など大掾の族が栄えたのである。15世紀のはじめ(応永年間)、藤原氏の族河和田城主江戸通房が馬場氏を追放し、代わって居城した。
それまでの本城の外に宿城(のち二の丸)を築くなど、城郭を拡張して約164年間水戸地方を支配したが、太田地方を本拠地として常陸北半を領した源氏の族佐竹氏は天正18年(1590年)秀吉の小田原城攻めに功績を認められると一気に江戸氏を攻め、水戸城を占拠した。
こうして54万余石を領する佐竹義宣はの本城となり城郭も一段と拡張され城下町も太田から移された商人によって栄えた。ところが秀吉の死後義宣は石田三成とと結んで家康に抗したため、慶長7年(1602)秋田へ国替えを命ぜられ、僅か13年間で水戸を去った。
その後は家康の子信吉、頼信が一時封ぜられたが、慶長14年(1609年)に第11氏頼房が藩主となってから代々その子孫が継いだ。頼房は二の丸に居館を築き、三の丸を造り三重の濠と土塁を巡らして武家屋敷や町人街を整える一方、徳川御三家として幕府を助けたが、第2代光圀以来尊王の学風を興して天下の大勢を導き、明治維新の源流を開いたのである。
水戸市教育委員会


昔の水戸城の地図を探しましたが、なかなか見つかりませんでした。やっと見つけました。結構貴重な地図だと思います。これがネットから拝借した昔の水戸城の本丸と二の丸の地図です。クリックすると拡大します。        
クリックすると拡大地図を表示
上の昔の城郭の地図と同じ範囲を現在の航空写真で見てみます。昔の地形がきれいに残されていることがわかりました。
多くの城址は公園になっているところが多いのですが水戸の城跡は文教地区となっており、水戸一高の他、水戸三高、水戸市立水戸第二中学校、茨城大附属小・幼稚園が建っている。水戸市立水戸第二中学校は校門や塀、校舎の多くをレトロ調にしていました。水戸市立水戸第二中学校は二の丸の元祠堂、祠堂附地所、元彰考館のあった場所に建てられたことが判りました。

本丸や二の丸の外側の地図を探して見ました。①~③が上の地図の範囲です。やはり大きくて堅固な城だったようです。①の「下の丸」は上の地図では「東二の丸」と書かれていました。のあたりが偕楽園です。
クリックすると引用させていただいた記事を表示します。

大手門の近くの石碑あたりから見た昔の二の丸方向です。昔風の建物がありました。これは水戸市立第二中学校です。昔の二の丸址に建てられてるために、このような景観の学校にしたのだと思います。すごいので紹介いたします。


こちらが学校の正門です。とても学校の門とは思えないです。通学時間帯だともっと学校らしい写真が撮れたと思います。


2011年11月に撮影されたGoogleのストリートビューがありました。校舎の一部は完成しています。門や塀などは建設中でした。これから2012年に完成したと思われます。写真をクリックするとストリート・ビューを表示します。
クリックするとストリートビュー

正門を拡大いたしました。「水戸市立第二中学校」と書かれているのがわかると思います。普通は水戸市立XX第二中学校という名前が付けられるのが普通ですが、ズバリ第二中学校という何も驚かされました。


塀も昔の城の壁のようでした。


正門から中を覗かせてもらいました。こちらが校舎です。ここで学んでいる中学生たちは思い出にもなるし自慢だと思います。


左の建物が体育館だと思います。弘道館の跡地の一部に建てられた水戸市立三の丸小学校も昔の景観にこだわった学校でした。これだけ昔の景観にこだわった学校は水戸以外で見たことはありません。

旧水海道小学校本館 [水戸]



水戸の偕楽園の近くに132年前の1881年(明治14年)に建てられた小学校の建物がありました。この小学校が建てられたのは茨城県常総市(旧 水海道市)ですが江戸時代は下総国豊田郡水海道村と言いました。 明治10年代における県下唯一の洋風建築でもあったことを考えると明治維新とともに新しい文化が浸透していったのだと思います。当時としては画期的なことだったのだと思います。
下総国豊田郡水海道村は明治から茨城県豊田郡水海道村となり1871年に茨城県豊田郡水海道駅になり1889年に茨城県豊田郡水海道町となったことから水海道駅という地名が使われた時代に建てられたことになります。

水海道市立水海道小学校から茨城県立歴史館に寄贈され1973年に移設されるときに建設当初の設計図を元に当初の姿に復元したそうです。茨城県指定文化財です。すばらしい建物なので紹介いたしました。


創設当時は、この天井に太鼓を吊し授業開始の合図などの時刻を報じたことから鼓楼と呼ばれています。
  場所  茨城県立歴史館の敷地内
  住所  茨城県水戸市緑町2-1-15
  電話  029-225-4425
  時間  9:30~17:00
  休館  月曜日(祝日の場合はその翌日)
  料金  無料
  HP   http://www.rekishikan.museum.ibk.ed.jp/mitsukaido.htm
  移設前 茨城県常総市水海道天満町2516番地1 ←1973年以前の位置


室内の撮影は禁止されているので、ここから下は頂いたパンフレットの写真で紹介いたします。一部、茨城県立歴史館のHPの写真も使わさせていただいています。こちらが展示室で沢山の資料に加えて全国的に活躍した人などを紹介していました。


当時の机や椅子やオルガンで教室を再現していました。さらに給食も再現されていました。こちらのみHPの写真を使わさせていただきました。


明治14年当時としては高価で貴重な輸入品であった板ガラスや色ガラスを使ってステンドグラスや窓ガラスが作られました。2階には上がることが出来ないのでバルコニーからの写真を紹介いたします。


この校舎を設計・建築したのは地元の宮大工で棟梁の羽田甚蔵(はだ じんぞう)氏です。左の写真が羽田甚蔵氏で、水海道の一言主神社・天満宮などの造営も行なったといわれている方です。西洋風の校舎を建てるために横浜まで見学に行ったといわれています。右の写真のように一階の梁に見られる運形の彫刻は、宮大工の技との和洋混交の建築のの特徴を示しているといえます。


1932年12月に講堂の完成を記念して東京の楽器店から同校後援会の寄付金と町の予算を合わせ1,200円で購入したピアノが実はすごい歴史的なものでした。この時はピアノの存在を知らなかったことからピアノの展示室には入らなかったのでピアノを見たい方は電話でピアノの見学が可能かどうかを確認してから行かれたらよいと思います。
このピアノは今から148年前の1865(慶応元)年にアメリカ・ニューヨーク市のスタインウェイ・アンド・サンズ(Steinway & Sons)社で製造された製造番号が11013番のピアノです。製造当時にはローズウッド木地仕上でした。
長さは203cmで、鍵盤は85鍵(白鍵:象牙製、黒鍵:黒檀製)です。このピアノ にはヘルツ式スプリング採用・ダブルエスケープメント・レペ ティションアクションという素早い連打を可能にするメカニックがあり、これは現代のピアノアクションの原形といえます。
ハーパー夫人によって1871(明治4)年に、このピアノが購入さ れて横浜に向けて送られました。日本に洋楽が導入された幕末・ 明治維新期のピアノのうちの1台で、文明開化を象徴する楽器でもあります。
これを購入した、この小学校では音楽の授業 や各種の儀式,音楽会などにこのピアノを活用してきたそうです。まて同年に片野次郎平先生が音楽教育の一環として「金の鈴合唱 団」を作ったり、その後、同校が各種の音楽コンクール等におい て素晴らしい成績をあげたりしたことも、このピアノの存在によ るということだそうです。

水戸城にあった藩校 弘道館 [水戸]



江戸時代には、この橋の場所には三の丸と二の丸を結ぶ橋がありました。橋の手前が二の丸で橋のすぐ近くに大手門がありました。橋の向こう側が三の丸でした。江戸時代後期に三の丸の中に常陸国水戸藩の藩校である弘道館が作られたのです。橋の向こうに現存する弘道館(こうどうかん)を見ることが出来ます。
水戸城は本丸、二の丸、三の丸を含んだ城郭内の施設で弘道館は数少ない現存設備なのです。その弘道館を訪問いたしました。
橋の名前は大手橋ですが、なぜか橋の欄干にはひらがなで「たほてはし」と書かれていました。この橋の竣功日は左の欄干に昭和10年12月と書かれており、1935年と見た目よりは古いことがわかりました。

こちらが弘道館側から見た昔の大手門です。


こちらは二の丸側から見た昔の弘道館です。服装や人力車が走ってる風景から時期は明治と思われます。


そして、これが2013年3月7日の弘道館です。大手橋から撮りました。


こちらが弘道館の正門と弘道館を囲む塀です。弘道館は国の特別史跡に指定されており、その中でも正門と正庁と至善堂は国の重要文化財に指定されています。つまりこの正門は国の重要文化財なのです。


正門を拡大いたしました。この門には水戸藩内の改革派(天狗党)と保守派(諸生党)が争った弘道館戦争の傷跡が残っています。


それが鉄砲の痕です。扉には四角い板で穴を塞いでいるのが、鉄砲の弾が貫通した跡です。門の右の柱にも弾が食い込んだ跡が見受けられました。保守派(諸生党)が弘道館に立てこもり大手門側から改革派(天狗党)が撃った弾痕なのです。


弘道館境内に入って驚かされました。なんと正庁と至善堂は補修工事のために白い塀で囲まれていたのでした。2010年3月11日の東日本大震災により弘道館も大きな被害を受けたのですが国の重要文化財であることから補修の許可に時間がかかり最近補修工事が始まったとのことでした。


こちらが正面から見た正庁です。部分的に透明のプラスチックの壁になっていることから一部を見ることが出来ました。


瓦の被害は少なくて健在に見えました。


こちらが裏庭から見た正庁と至善堂です。正面が正庁で左の方が至善堂です。


昔の弘道館の図面です。赤枠で囲まれている部分が現存している弘道館です。天文台、③武館、⑤医学館のあたりは水戸市三の丸小学校となり、調錬場は県庁と図書館と水戸警察が建っていました。水戸市三の丸小学校はレトロナ雰囲気に作られているので必見です。多くの藩士たちが学んだ②文館のあたりは弘道館公園となっており建物は残っていませんでした。


現在の航空写真に昔の弘道館の範囲と現在の弘道館の範囲を記載いたしました。
  今の弘道館     ピンクの枠ので囲まれた範囲
  昔の弘道館     緑の枠で囲まれた範囲
  散策ルート      赤い線
  正庁          ピンクの枠の緑のマーク
  本丸&二の丸    橙色で囲まれた範囲
  現在の三の丸地名 空色の枠で囲まれた範囲 

本丸や二の丸を含めた範囲の航空写真

より大きな地図で 弘道館 を表示
震災前の正庁の写真が工事現場の壁に掲載されていたので紹介いたします。これが正庁です。正庁は学校御殿とも呼ばれる弘道館の中心的な建物です。特に正席の間は藩主が臨席して文武の試験や諸儀式が行われた重要な場所です。正庁は玄関から板廊下をへて上手の3室(正席の間、二の間、三の間)とこれに付属する湯殿・便所があり、下手には来館者の控の間である諸役会所などが置かれていました。内部は、高い天井に畳敷きの床の間や違い棚、付属院を備えた格調高い書院造です。また、屋根にも大棟に青海波文様を施すなど、御殿建築にふさわしい意匠(工夫)が凝らされています。


正庁に飾られている扁額で「游於藝」と書かれています。游於藝は論語の一節です。


こちらが上で書いている藩主も臨席する最も格式の高い「正席の間」です。


ここでは葵の紋が入った畳縁が使われています。


井戸がありました。藩校当時、この近くに御台所があり、この井戸が使われていたそうです。


こちらが孔子廟です。孔子廟には,学問の祖である孔子が祀られています。創設者徳川斉昭は,弘道館の聖域に鹿島神社と孔子廟を併設することにより,神儒一致の精神をあらわしました。
孔子廟も震災で被害を受けましたが復旧工事が完了したそうです。


孔子廟の門になる戟門はまだ補修は行われていませんでした。


八卦堂(はっれどう)も補修工事中でした。八卦堂は「弘道とは何ぞ」で始まる弘道館建学の精神を記した「弘道館記」の石碑が納めています。


学生警鐘の鐘楼は完全に倒壊しており補修は決まっているようでしたが工事は始まっていませんでした。学生警鐘は鐘楼につるされて江戸時代の後期に弘道館で学ぶ学生たちに時を告げていた青銅製の鐘いた鐘です。


これは要石歌碑で、書かれている歌は烈公の自選・自筆によるものです。碑には「行末毛富美奈太賀幣曽蜻島大和乃道存要那里家流」と書かれていました。意味は「大和の道は万古不易の大道で、日本人の実践すべきものであることを示された。」とのことです。


八卦堂の近くにも江戸時代に使われていた井戸がありました。


この碑は徳川斉昭(烈公)が天保4年(1833年)に就藩した時に領内に梅が少ないことを知り江戸屋敷の梅の実を集め水戸に送って育苗し偕楽園や弘道館、さらには領民の家々まで植えさせた由来記してあります。また、梅の花を鑑賞するばかりでなく、その実は、戦いのときの副食としても役立つので蓄えておくようにといった梅の効用についても述べてあります。碑文は烈公の自選で天保12年(1841年)に建てられたそうです。碑の名前は種梅記碑です。


弘道館の神殿として創祀された鹿島神社です。安政4年(1857年)5月9日に鹿島神宮の御分霊を遷祀したのが始まりだといわれています。その時に烈公が自ら鍛えた太刀を奉納して御神体に擬え、弘道館に魂を入れましたと伝えられています。その太刀は現在、水戸市指定重要文化財になっています。社殿は戦災にあい、しばらくは仮ででしたが1972年に伊勢神宮の別宮の一つ「風日祈宮」の旧殿一式を移築したそうです。


鹿島神社の前に立った景観です。奥に本殿があります。これは神社特有ですね。裏に回れば見ることが出来ます。


水戸の偕楽園の梅園を紹介しましたが弘道館にも沢山の梅がありました。こちらも梅の開花は限られていました。


こちらにも梅の古木がありました。こちらは臥竜梅(がりゅうばい)です。花が咲いていました。


こちらが臥竜梅の花です。


これ以外の咲いていた花を紹介いたします。こちらが実生野梅(みしょうやばい)です。


偕楽園でも沢山咲いていた早生種の八重寒紅(やえかんこう)です。


こちらの梅は白難波(しろなにわ)です。これ以外はこれから咲いていきそうです。この時(2012年3月7日)から15日後が見ごろではないかと言われていました。


黄色の服の方は市民観光ボランティア「歴史アドバイザー」の方で無料で弘道館や梅のことを案内してもらえます。私は六名木と正門の銃弾痕のことを教えてもらいました。写真は文明夫人(第9代藩主 徳川斉昭の夫人)の歌碑に関して説明されているところです。

水戸と言えば水戸黄門 [水戸]



日本三大庭園の偕楽園に梅を見るために水戸に行ってきました。水戸と言えば水戸黄門で有名な常陸国水戸藩の第2代藩主の徳川光圀(1628年7月11日~1701年1月14日 水戸光圀)です。隠居後に水戸藩領内を巡視した話などから諸国漫遊がイメージされていると考えられていますが、実際の光圀は日光、鎌倉、金沢八景、房総などしか訪れたことがなく関東地方の範囲から出た記録は無いそうです。とは言え徳川家康の孫に当たり、徳川一門の長老として将軍綱吉期には幕政にも影響力を持ったことは史実です。上の写真は水戸駅の前にある水戸黄門の像ですが、テレビカメラで撮影されている方がおられました。カメラマン以外にスタッフらしい方も2人おられました。

水戸には家の最寄駅から船橋と柏を経由していきました。柏からは特急「フレッシュひたち9号」の自由席に乗りました。こちらが「フレッシュひたち」の車内です。


常磐線沿いには古い建物が沢山ありました。古い立派な建物を、これだけまとまって見たは久しぶりでした。


水戸到着寸前の偕楽園あたりの景色です。見えている湖は千波湖です。


水戸駅に着きました。この先に改札機があります。


水戸駅前です。冒頭の写真の水戸黄門と助さんと格さんの像は水戸駅前にありました。写真の真ん中あたりに「水戸黄門 助さん 格さん」の背中側からの像が小さく見えると思います。


光圀(義公)の生誕の地が駅の近くにあるらしいので、駅の近くを探していると「水戸黄門神社 義公生誕の地」の看板を見つけました。義公というのは死後に奉る名前である諡号(しごう)です。


義公生誕の地が水戸市指定文化財であるとの説明がありました。内容は下の枠内の通りです。
水戸市指定文化財  義公生誕の地
水戸が生んだ不朽の傑人「水戸黄門光圀」(義公)は 初代水戸藩主頼房(徳川家康の第11子)の第3子で寛永 5年(1628)6月10日家老三木仁兵衛之次の邸に生ま れた。
母は谷氏(靖定夫人)といい義公の生誕を前にこの屋敷に 一粒の梅の実をまいた。義公生誕とともに芽生え、成長と ともに育ち、寛文7年(1667)義公40才の春 ここに賞花の 宴を催し「朽残る 老木の梅も 此宿のはるにふたたび あふぞ嬉しき」と詠んだ。歌に生母への思慕の情がうかがわれる。
水戸市教育委員会


光圀が三木亭で生まれた経緯は、光圀の母である久子は奥付きの老女の娘で、正式な側室ではなかった。久子は母につき従って奥に出入りするうちに頼房の寵を得て、光圀の兄である頼重を懐妊したが、久子の母はこのことに憤慨し、正式な側室であったお勝も機嫌を損ねたため、頼房は堕胎を命じた。同じく奥付老女として仕えていた三木仁兵衛之次の妻・武佐が頼房の准母である英勝院と相談し、密かに江戸の三木邸で頼重を出産したという。光圀を久子が懐妊ときも同様に堕胎の命令が出されたが、三木夫妻は主命に背いて密かに光圀を水戸の三木邸で出産させたそうです。「義公遺事による」
今は、町の中で昔の面影のものは残っていませんが、このあたり一帯が家老であった三木仁兵衛之次の屋敷であったのだと思います。とりあえず水戸黄門に関わる場所に来ることが出来ました。ちなみに水戸黄門は物語の題名でもありますが、徳川光圀が権中納言であったころの別称でもあります。

軍鶏(しゃも)の親子丼 五鐵 夢境庵 [水戸]



すでに紹介の通り水戸の偕楽園に梅を見に行きましたが、水戸の名物をネットで検索して、家を出るときから軍鶏(しゃも)の親子丼を食べることを決めていました。同じ軍鶏親子丼を食べるのであれば軍鶏親子丼で有名な「五鐵 夢境庵」で食べることも決めていました。
軍鶏(シャモ)はタイ原産の闘鶏用、観賞用、食肉用のニワトリの一種でシャモの名は当時のタイの呼称シャムに由来するそうで、日本では闘鶏用として輸入されたため「軍鶏」の字が当てられたそうです。江戸時代初期に伝わったとされており、なんと1941年に国の天然記念物に指定されているとのことでした。
軍鶏肉の特徴は味と歯ごたえで、ここでは茨城県の名産である奥久慈シャモ(おくくじしゃも)が使われているとのことでした。シャモは闘鶏用ニワトリであるため、気性が荒く、群れで飼うのは難しい種ですが、肉・卵ともに味がよいため、闘争心を抑え、繁殖力があるよう茨城県養鶏試験場で改良を加え、できたのが奥久慈シャモだそうです。奥久慈シャモは全国特種鶏(地鶏)味の求評会で第1位に選ばれたそうです。ちなみに日本三大軍鶏は奥久慈軍鶏、薩摩軍鶏、東京軍鶏です。そして日本三大地鶏は秋田県の比内地鶏、茨城県の奥久慈しゃも(奥久慈軍鶏)、愛知県の名古屋コーチンです。一般のニワトリは飼育期間約50日で3kgほどに育つのに対して、奥久慈シャモは雄が120日で2.6kg、雌が150日で2.1kgと地鶏の中でも格段に手間ひまがかかる品種だそうです。

家の最寄駅を7時42分に乗って船橋と柏を経由して水戸に着いたのが9時49分でした。水戸について義公生誕の地(水戸黄門神社)、水戸城址、弘道館、八掛堂をゆっくりと見て五鐵夢境庵に着いたのが11時15分でした。少し早いけれども「商い中」の札が下がっていたので、さっそく入ってみました。入口の塀の裏に「山月草木悉有仏性」と書かれた石碑が建てられていました。これは漢詩で「さんせんそうもく ことごとく ぶっしょうもあり」と読み、「自然界の全てには仏性が有る。」という意味だそうです。ここに来られた時には、是非とも塀の裏に目をやってみてください。


細長い建物で通路の左側が個室になっていました。細長い通路も趣がありました。


一人でしたが、早かったおかげで一番奥の個室に案内されました。下の写真は帰るときに撮ったもので、こちらの個室で親子丼をいただきました。右の写真は隣の個室で、予約が入っているようでした。
 店名 五鐵 夢境庵
 住所 茨城県水戸市南町1-3-27
 電話 029-225-6073
 営業 11:00~14:00 17:00~22:00
 定休 11~4月 無休  5~10月 日曜
 HP  http://www.gotetsu.co.jp/


さっそく親子丼を頼みました。
「並」と「上」があるとのことなので、迷わず「上」を頼みました。「並」は990円で、「上」は1360円です。「上」と「並」の違いは、しゃも肉の量だそうです。


こちらが奥久慈軍鶏の親子丼です。さすが評判の親子丼でした。奥久慈とは茨城県久慈郡太子町のあたりの地域です。袋田の滝が近いです。


味わいを感じてもらうために、どんぶりだけの写真を紹介いたします。


さらに拡大いたしました。食べてみてもっとも印象的だったのが歯ごたえでした。ベトナムやインドで美味しい鶏肉を何度か食べていましたが、これだけ歯ごたえのある肉は初めてでした。やっぱりランチを親子丼にしたのは大正解でした。


コーヒーもついていました。早く来たおかげで個室でゆっくりとさせてもらいました。帰るころ(11時45分)には個室は満席になっていました。


地鶏の定義(日本農林規格)
日本在来種(明治までに日本に定着)の血液百分率が50%以上
生後28日以降は1㎡あたり10羽以下で平飼し、飼育期間が80日以上
農林水産省の日本農林規格(特定JAS規格)で地鶏認定

日本農林規格に適合した地鶏  着色地鶏名は日本三大地鶏
(北海道)  北海地鶏
(青森県)  青森シャモロック
(岩手県)  南部かしわ
(秋田県)  比内地鶏
(山形県)  やまがた地鶏
(福島県)  川俣しゃも 会津地鶏
(新潟県)  にいがた地鶏
(栃木県)  栃木しゃも
茨城県)  奥久慈しゃも やさとしゃも 筑波地鶏
(群馬県)  上州地鶏
(埼玉県)  タマシャモ
(千葉県)  房総地どり
(山梨県)  甲州地どり
(岐阜県)  美濃地鶏 奥美濃古地鶏
(静岡県)  一黒シャモ 駿河シャモ
(愛知県)  名古屋種 純系名古屋コーチン
(三重県)  熊野地どり 松坂地どり 伊勢二見ヶ浦夫婦地鶏
(滋賀県)  近江しゃも
(京都府)  京地どり 地鶏丹波黒どり 京赤地どり
(大阪府)  葵之地鶏
(兵庫県)  丹波地どり 松風地どり 播州地どり 但馬地どり
(奈良県)  大和肉鶏
(和歌山県) 紀州鶏
(鳥取県)  大山シャモ
(岡山県)  おかやま地どり 岡山桃太郎地どり
(徳島県)  阿波尾鶏
(香川県)  讃岐コーチン 地鶏瀬戸赤どり
(愛媛県)  伊予赤どり 伊予路しゃも 媛っこ地鶏 奥伊予地鶏 道後地鶏
(高知県)  土佐はちきん地鶏 土佐ジロー
(福岡県)  はかた地どり
(長崎県)  つしま地どり
(熊本県)  天草大王 熊本コーチン
(大分県)  豊のしゃも
(宮崎県)  宮崎地頭鶏
(鹿児島県) さつま地鶏 さつま若しゃも

水戸の偕楽園 開花が遅れていました。 [水戸]



そろそろ梅が見ごろになっているのではないかと2013年3月7日に茨城県の水戸市にある偕楽園(かいらくえん)に行きました。偕楽園は初めての経験でした。実は一泊で水戸の近くで3月8日にゴルフをすることも兼ねて来たのでした。こちらが偕楽園の北東方向にある御成門です。
梅園が門から奥に続いているので雰囲気のある門となっていました。
水戸駅から水戸城址や弘道館などを地図を見ながら散策して歩いてきたら、こちらの御成門(おなりもん)に着きました。

偕楽園の地図で右上の門が御成門です。御成門から梅園に放射状に道がのびており梅園に入るには一番雰囲気がある気がしました。偕楽園にはいくつかの門があります。私は水戸駅から散策を兼ねて歩いてきたので偶然に御成門から入ることになりました。
地図でピンクに塗られている道は日没から21時まで梅がライアップされるところなのです。茶色に塗られたところも同時刻にライトアップされます。残念ながら夕食の時間が迫っていたのでライトアップを見ることはできませんでした。ライトアップは3月10日までの予定でしたが開花が遅れていることから3月24日まで延長されたとホームページに記載されていました。


上の地図と同じ範囲の航空写真を紹介します。写真をクリックするとオリジナルの航空写真を表示します。
クリックするとGoogle航空写真

御成門を入ってまっすぐな道がのびでいました。
梅が満開になっていることを期待してきたのですが、写真のような状況でした。


ほとんどの梅の木は、このようなつぼみの状態で、つぼみからは花弁が覗いており、もうすぐすると花が開く状態でした。



沢山の花が咲いている木もありました。不思議なことに満開にに近い木と花が咲いていない木に分かれていました。沢山の花が咲いている木は20本に1本あるいはそれよりも少ない状態でした。ただし全体で約3000本(3072本)の梅の木があるわけなので150本近い木は咲いていることになります。公式的には469本が開花して開花率は15.3%(3月6日)でした。
桜の場合はすべての木が同時に同じ率で花を咲かせるのに対して梅の場合は木によって大きく違うことから開花率の定義も違うようです。イメージ的には花が咲いている木の本数の率が開花率という印象でした。


上の梅の木の花です。この木に関しては満開に近い状態と言えました。名前は八重寒紅です。八重という名が付いた品種が多かったです。


白い花も紹介いたします。こちらで30%程度咲いているでしょうか。沢山の花を付けている方の木でした。こちらの名前は月宮殿です。


ほとんどの梅の木には名札がつけられていました。おかげで花の名前がわかりました。こちらでは新しい名札と古い名札がつけられていました。名札には高砂枝垂(高砂しだれ)とかかれていました。


梅の木は古木で、花を付けていなくてもすばらしい景観でした。これに花が満開になるとさらにすばらしい景観を見せてくれることが想像で来ました。


古い木は支柱で支えられて大切にそだてられていました。花もちらほら咲いていました。


六角形の柵に囲われている梅の木が六名木です。1934年に園内にあるすべての品種を調査・研究し、その中でも、花の形・香り・色などが特に優れているものを6品種選び、水戸の六名木としました。六名木は烈公梅(れっこうばい)、白難波(しろなにわ)、月影(つきかげ)、江南所無(こうなんしょむ)、柳川枝垂(やながわしだれ)、虎の尾(とらのお)の6種類です。
こちらの梅は虎の尾です。花はまだ先のようです。


こちらも六角形の柵に囲われています。六名木の柳川枝垂です。こちらは少し花が咲いていました。


沢山の方が来られていました。こちらでも少し赤いものが見えていました。
水戸駅近くにある弘道館の中の梅林も同じような開花状況で、そこのボランティアで説明をされている方に見ごろの時期を聞くと、あと10日~15日程度ではないかと言われていました。それからすると3月16、17日ごろと思われますが気温次第だと思います。偕楽園の梅園の最新情報を掲載されている方のブログを見つけました。これで最高の時期が判断できそうです。→ポチッ ポチッ


つぼみばかりではなく咲いていた花も紹介いたします。咲いている梅の花を探せば沢山、見つけられるはずです。




花が満開の木の前では記念写真を撮る方が沢山おられていました。


偕楽園の本来の正式な入口は、こちらの好文亭表門で、敷地の北西側に位置しています。そして表門は松材が多く使用され松煙色(黒色)となっているために「黒門」とも呼ばれています。表門から園内に入り、「一の木戸」と呼ばれる門を潜ると、偕楽園に入ります。表門は偕楽園駅や主要な駐車場から遠く離れていることから、この門から入園する観光客は少ない場所で、現在は梅林へと直接通じる「東門」が主要な出入口として利用されています。


こちらが東門です。確かに最もにぎわっている場所でした。沢山のお店に加えて沢山の屋台が出ていました。偕楽園の広さは13万㎡(4万坪)で約100種3000本のウメ(梅)が植えられており、岡山市の後楽園や金沢市の兼六園と並んで、「日本三名園」の一つに数えられいます。偕楽園は天保13年(1842年)に水戸藩第九代藩主徳川斉昭によって造園されました。斉昭は、千波湖に臨む七面山を切り開き、領内の民と偕(とも)に楽しむ場にしたいと願い、「偕楽園」をつくりました。今年は2月20日~3月31日に第117回雌の水戸の梅まつりが行われています。黄色の服の方は市民観光ボランティア「歴史アドバイザー」の方で無料で園内を案内してもらえます。弘道館にもおられて、気楽に質問が出来るので、お世話になりました。


梅林の南西方向は広い開放的な芝生のスペースになっており、松の木が植えられていました。遠くに見える建物は好文亭です。偕楽園は入園無料で、好文亭のみが有料施設ですが190円(大人)で内部に入ることが出来ます。


皆さん芝生のうえに座られてのんびりとされていました。


1999年7月に隣接する千波湖の周りの千波公園などとあわせて名称を「偕楽園公園」となり、面積は合計300万㎡であり、都市公園としてはニューヨーク市のセントラルパークに次いで世界第2位の広さで、現在は茨城県の県営公園となっています。好文亭から見た偕楽園公園です。正面に見える湖が千波湖で梅園は、こちらの写真には写っておらず左に広がってます。写真の中で、ひときわ大きな木が有名な「左近の桜」です。