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鎌倉大仏 [鎌倉]



初めて鎌倉を訪問した時に行きたい場所の一つが鎌倉大仏ではないでしょうか。
私も初めて鎌倉を訪れましたが、やっぱり鎌倉大仏を訪問いたしました。修学旅行生が沢山来られている時期でした。

私がはじめてだったのだから、まだ鎌倉を訪れていない人も沢山おられると思うので、いろんな角度の鎌倉大仏の写真を紹介いたします。鎌倉大仏は神奈川県鎌倉市長谷(はせ)にある浄土宗の高徳院(こうとくいん)の本尊である阿弥陀如来像(国宝)です。鎌倉大仏は「長谷の大仏」とも呼ばれる鎌倉を代表する銅製の大仏です。像高約11.39mで、台座を含めた高さ13.35mです。重量は地震対策を行った時にジャッキアップして計測した結果、約121トもあることがわかりました。
体部に比して頭部のプロポーションが大きい点などが鎌倉期に流行した「宋風」の仏像の特色を示しており、鎌倉時代を代表する仏教彫刻として国宝に指定されています。また、後世の補修が甚大な奈良・東大寺の大仏と比べ、ほぼ造像当初の姿を保っている点が特徴でもあります。


本像の金属組成の平均含有比率は銅68.7%、鉛19.6%、錫9.3%となっており銅が比較的少なく、鉛の含有量が多いことが特徴で本像の鋳造に際しては宋から輸入された中国銭が使用されたと推定されています。


鎌倉大仏の創建に関しては諸説があり、正式には不明となっていますが、それらの中で建長4年(1252年)から造立が開始された大仏が、現存する鎌倉大仏であるとするのが可能性の高い定説だそうです。
鎌倉大仏は、奈良の大仏のように、元来は大仏殿のなかに安置されていましたが大仏殿は地震と津波と大風(1335年)で何度か倒壊し、何度か再建されたと推定されていますが、こちらも正確な年代や倒壊理由は、判っていません。しかしながら、少なくとも応安2年(1369年)の倒壊以後に大仏殿が再建された形跡は見つかっていないことから643年間、露坐(屋外にむき出し)であったようです。そのために表面が腐食して現在の色合いになったようです。


これが創建当初大仏像を収めていた大仏殿(堂宇)を支えていた60基の礎石の一つです。現在、境内に56基の礎石が残されているそうです。いずれも神奈川県小田原市の根府川産の輝石安山岩だそうです。礎石に彫られている排水のためのカーブを描いた溝が印象的でした。上に乗っかる柱の底部が腐らないようにするための工夫だと思います。


こちらが大仏の後ろ姿です。よく見ると背中に窓らしきものがあります。


初めて鎌倉大仏に訪れる方のために見どころの一つ紹介します。実は大仏は内部が空洞になって人が入れるのです。


こちらが内部に入るための入口です。入るために小銭を用意しておいてください。
料金は一人20円で、名前は「胎内拝観料(Entrance Fee)」となっていました。時間は8時から16時半なので見たい方はこの時間帯を覚えておいてください。


大仏の鋳造は体部が7段、頭部は前面が5段、背面が6段に分けて行われましたが、像の内外に残る痕跡から、その鋳造方法を見ることが出来ます。写真は真上方向を撮ったもので穴の部分が首でその上の空間が頭の部分です。茶色っぽい色に見えるところは補強を行ったさいに塗布された繊維強化プラスチックです。


高徳院の正式名は「大異山 高徳院 清浄泉寺」です。
境内一帯が「鎌倉大仏殿跡」の名称で国の史跡に指定されておりIMG_6816-146.jpg鎌倉大仏以外では、目立って大きな建造物はありませんでした。入口の仁王門が一番の建物のような気がしました。開基(創立者)や開山(初代住職)はともに不詳なのです。そんな境内の中に下の写真の李氏王朝の月宮殿を1924年に移築した「観月堂」があります。
観月堂の内部には江戸幕府2代将軍の徳川秀忠が所持していたとされる聖観音像を安置しており、鎌倉三十三所観音霊場の第23番札所の本尊になっています。
それ以外で境内の見どころとしては右の写真の与謝野晶子の歌碑があります。歌碑には「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな」の歌が刻まれています。つまり与謝野晶子が鎌倉大仏のことを「美男におはす 」と評した歌なのです。


こちらが高徳院の入口にある仁王門です。仁王門自体は江戸時代の作といわれています。1700年代の初頭に他の場所から移されてきたものと考えられており、安置されている吽形像と阿形像の仁王像も同時期のもの考えられています。仁王像に関しては2011年10月より調査・修復事業を実施しており別の場所に写されていることから約2年間は見ることが出来ません。


仁王像の門をくぐって拝観料を払って受付を通ったところに手水舎がありましました。ここから鎌倉大仏の頭の部分が見えてきます。


高徳院の入口の道路脇には5基の碑がありました。少なくとも3基は庚申塔でした。庚申供養塔の文字が読み取れました。


周りの駐車場は整備されており、歩いて2~3分の距離の駐車場にバスを置くことが出来ました。


タグ:日本 鎌倉 大仏

海をはさんで富士山が見えるはずでした。 [鎌倉]



すでに紹介した鎌倉には右のチャーターバスで行きました。そこで鎌倉からの帰りに海の向こうに富士山が見える景色が見たいと運転手さんに頼むと三浦半島の葉山に行ってくれました。残念ながら霞んでいて富士山を見ることが出来ませんでした。
正面の島が江の島です。空気が澄んでいたら江の島の少し左側に富士山が見えるのです。

富士山がどのような大きさで見えるのかが気になったので、同じような場所からの写真をネットで探しました。左が拝借した写真です。江ノ島と比べて大きく見えるのに驚きました。益々、見たくなりました。下の地図の紫のマークが葉山マリーナで、紫のラインが富士山の方向です。この場所から富士山までの直線距離は76.52kmです。紫のラインをクリックすると距離が表示されます。
緑のラインは稲村ガ崎から富士山を見た方向です。
kazu-kun2626さんの稲村ガ崎の夕景冨士トラックバックしています。
他のマークは、すでに紹介した場所でマークをクリックすると、名前を表示します。

沢山のヨットが集まっていました。ヨットの練習をしているのかもしれません。


ここは漁港でもありました。沢山の漁船を見ることが出来ました。鎌倉での午前中から3時ごろまでは散策の時は快晴で空気も澄んでいたのですが、帰るころは霞んでしまいました。


航空写真で葉山マリーナと漁港を見てみました。大きなチャーターバスですが9人だったのでゆったりと座ることが出来ました。


kazu-kun2626さんの稲村ケ崎からのダイヤモンド富士 不発にトラックバックしています。

嵩山門(すうざんもん) [鎌倉]



鎌倉の記事をいくつか掲載していましたが中断していたので、残った記事を最近の記事の合間に入れさせていただきます。鎌倉の建長寺は開放的で観光客や参拝者はいろんな場所に入れるのですが、神聖な修行の場所だけは入ることが出来ません。
それが嵩山門(すうざんもん)の奥のエリアです。

右の写真のように門の左側に「これより奥は坐禅修行道場につき拝観おことわりします。」の看板が立てられていました。外人の観光客も多いためか英語でも「KEEP OUT!」と書かれていました。
下の写真が正面からの嵩山門です。修行の場にふさわしい入口の門構えです。


門の上の「嵩山」の文字が印象的でした。右の柱には「本派専門道場」と書かれており左には「四部録提唱」と書かれていました。四部録を調べてみると信心銘、証道歌、十牛図、坐禅儀のようですが、もう少し調べてみる必要がありそうです。


これが門の場所から見た奥の道です。


中に入れないとなると、奥がどのようになっているのか気になります。航空写真で紹介いたします。大きな建物がいくつもありました。写真の左上端に嵩山門があります。


建長寺の唐門 [鎌倉]



唐門建長寺の中で一際、輝いていたのが上の写真の唐門でした。実は一年半近くをかけて補修が行われ、昨年に完成(2011年5月30日 落慶法要)したばかりだったのです。右はネットから拝借した補修前の唐門の写真ですが、補修により建立時の唐門を、ほぼ再現できたそうです。
建長寺の唐門は、もとは1626年(寛永3年)から1628年の間に建立された東京の芝増上寺の徳川秀忠夫人崇源院御霊屋正殿(現在、仏殿)前の中門と考えられるとのことです。1647年(正保四年)に移築されて、現在は方丈(龍宝殿)の正面にあります。勅使門ともいわれています。

唐門の補修中の写真をGoogleのストリートビューから拝借いたしました。
Googleの撮影者が建長寺境内に入ってきたようで境内のいろんな場所を見ることが出来ます。非常に鮮明な映像です。
補修中のGoogleのストリート・ビューの画像です。→ポチッ
補修中の唐門

少し離れたところから見ると唐門と龍王殿がバランスのよい姿を見せてくれます。この写真を撮った位置は、龍王殿や塀や植え込みから補修中の写真を撮った場所に近いことが分かってもらえると思います。


門の飾りを拡大いたしました。


さらに拡大いたしました。


こちらが龍王殿側から見た唐門の内側です。正面の柱の間は4.1mで、前の丸い柱は42cmで後ろの角柱は36cmの堂々とした作りです。花紋や唐草の彫り物や漆塗りも再現されたようです。


こちらが方丈(龍宝殿)です。他の建物と違い、落ち着いた風情を見せてくれているような気がします。


龍宝殿の回廊の正面部分です。


これが龍宝殿の内部です。人がいるときは撮影を遠慮するようにとのことです。今回のように行事が行われていないときは自由に撮ることが出来ます。


龍宝殿の裏側は日本庭園になっており、休憩のための椅子が置かれています。そこに座ってゆっくりと景色を楽しむことが出来ます。


角度が変わると日本庭園も違った風情を見せてくれます。


龍宝殿の回廊は文字通り一周できます。最初の入口近くの回廊です。


タグ:鎌倉 建長寺

茅葺の鐘楼 [鎌倉]



樹齢750年のビャクシンを紹介した鎌倉の建長寺にはもう一つ趣のあるものがありました。それが写真の茅葺(かやぶき)の鐘楼(しょうろう)です。建長寺の境内には沢山の建物゛ありますが茅葺なのは、この鐘楼だけでした。

これだけの風情を見せる建長寺の鐘楼に関する記述はほとんどないのにも驚きました。そこに吊るされている今から757年前に造られた国宝の梵鐘が有名なために、鐘楼にに関する記述が少ないのではないかと思いました。鐘楼は新しいものかもしれませんが国宝の梵鐘にひけをとらない風情がありました。


それは周りの景色に溶け込んでいました。奥に見える禅道場の門である嵩山門です。これより奥は座禅修業道場で一般の拝観が出来ない神聖な場所で門の右側には「本派専門道場」と書かれていました。建長寺の正式名称は「巨福山 建長興国禅寺」で、臨済宗建長寺派の大本山です。
この写真をクリックすると、この場所のストリート・ビューを表示します。


その嵩山門から見た景色です。三門と鐘楼の素晴らしい景観だと思いませんか。


梵鐘に関する説明書きです。1255年(建長7年)に関東の鋳物師の筆頭であった物部重光によって鋳造されたものです。 


国宝の梵鐘の姿も紹介いたします。総高208.8cm、口径124.3cm、重さ2.7トンで、平安時代の作風を踏襲しているそうです。建長寺創建当時の貴重な遺品です。建長寺の梵鐘は関東一美しい梵鐘とされており、音色が人の泣き声に似ているということから「夜泣き鐘」とも呼ばれています。


建長寺は伽藍配置 [鎌倉]



2012年5月22日から中国に来ています。今回の中国の記事を本格的に掲載出来るのは帰国(5月29日)後になると思いますので、鎌倉の記事の掲載を続けさせていただきます。今回、紹介の建長寺は中国と縁の深いお寺でした。
上の写真は建長寺の入口にあたる総門です。ここを入ったところで拝観料(300円)を払って中に入ります。すでに建長寺の鐘楼の記事の中で紹介しましたが建長寺は759年前の1253年(建長5年)に鎌倉幕府第5代執権北条時頼によって、わが国最初の禅寺として創建されました。初代住職(開山)は宋からの渡来僧・蘭渓道隆でした。建長寺の正式名は「巨福山 建長興国禅寺」です。総門に山号である巨福山(こふくさん)の文字が書かれていました。

日本の伽藍配置は6世紀(西暦500年代)に始ったようで、鎌倉時代(12~14世紀)に禅宗の伝来によって整然とした伽藍配置が行われ、総門を入ると三門(山門)・仏殿・法堂(はっとう)が一直線に建つ伽藍配置が現れたそうです。まさに、その時代のように総門・三門・仏殿・法堂・方丈が一直線に並ぶ伽藍配置は素晴らしかったです。境内が「建長寺境内」として国の史跡に指定されていることが納得できました。鎌倉五山の第一位でもあるそうです。
これでも創建時に比べると規模が小さくなったと書かれてしました。創建当時の沢山の建物があった建長寺を見てみたいものです。


総門ごしに見た三門です。 建長寺の最初の総門は1275年(建治元年)頃に建てられたと考えられています。
1609年(慶長14年)に再興された総門は1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊してしまいます。現在の総門は、1783年(天明3年)に建立されたとされている京都の般舟三昧院の門を1940年(昭和15年)に移築された建物だそうです。


総門をくぐったところの景色です。この日は本当に快晴ですばらしい景色でした。


こちらが三門です。一般的に山門に相当するのが、この三門と呼ばれている三解脱門です。三解脱門(さんげだつもん)とは、涅槃(悟り)に至るために通過しなければならない三つの関門(空・無作・無相)のことだそうです。楼上には、釈迦如来・五百羅漢・十六羅漢が安置され、その下を通ると心が清浄になるといわれています。
クリックすると記事を表示現在の三門は、江戸時代の1775年(安永4年)に二百一世万拙碩誼(ばんせつせきぎ)によって再建されたものだそうです。古狸が再建の勧進に活躍したことから「狸の三門」と呼ばれている国の重要文化財の門です。三門の横には、すでに紹介した茅葺の鐘楼がありました。


三門の奥に仏殿があります。建長寺創建当初の仏殿は、左右に土地堂(つちどう)と祖師堂を従えたものだったそうです。現在の仏殿は365年前の1647年(正保4年)に芝増上寺の徳川二代将軍秀忠夫人(崇源院)の御霊屋が移築されたものだそうです。崇源院は、織田信長の妹お市の方と浅井長政との間に生まれ、姉は豊臣秀吉の側室となった淀の方です。娘には豊臣秀頼に嫁いだ千姫がいます。千姫の養女は東慶寺二十世の天秀尼です。仏殿の他、方丈の正門であった唐門(勅使門)と西来庵の中門も崇源院の御霊屋にあったものが移築されています。建長寺の建物は全国の有名な場所から建物が移設されているのに驚きました。


仏殿の本尊は地蔵菩薩坐像です。1253年(建長5年)の吾妻鏡には、「丈六の地蔵菩薩をもって中尊となし、同像千體を安置す。」と記されています。現在安置されている地蔵像は室町期の作と考えられています。
本尊の他、土地堂に祀られていたと考えられる伽藍神像、千体地蔵、伝心平地蔵なども安置されています。
禅寺の本尊が地蔵菩薩というのは珍しい野ですが建長寺の建てられた場所は地獄谷と呼ばれ、もともとは、地蔵菩薩を本尊とする心平寺が建てられていた。その跡地に建てたことから、地蔵菩薩を本尊としたといわれているます。建長寺を調べていると気楽に訪れやすい感じがあると書かれていました。確かに写真撮影は催しなどの時以外は自由なのです。鎌倉の他の神社やお寺では撮影禁止の表示がありましたが、こちらではないのが、その表れなのかもしれません。


仏殿の奥には法堂(右側の建物)があり仏殿越しに見る景色は伽藍の雰囲気を伝えてくれます。遠くに唐門と龍王殿が見えます。法堂(はっとう)は、法を説くための堂のことだそうです。
当初の法堂は1275年(建治元年)に建長寺開基で五代執権の北条時頼十三回忌のときに創建されたそうです。 現在の法堂は1814年(文化11年)に再建(上棟)されたもので、関東一の大きさだそうです。
鎌倉の現存する法堂は建長寺だけだそうです。


左の建物が法堂 右の建物が仏殿です。


法堂の本尊は大悲閣にあったとされる千手観音像が祀られています。本尊の前にある釈迦苦行像は釈迦が極限の苦行・禁欲(断食)をしている姿を現しているそうです。ガンダーラ文明の遺産で、パキスタンのラホール中央博物館に安置されている像のレプリカで、2005年の愛知万博に陳列された後、パキスタン国より建長寺に寄贈されたそうです。


こちらが重要文化財の唐門(からもん)です。非常にきれいだと思ったら以前から補修されていて一年前に修理が終わって2011年5月30日に落慶法要が営まれました。
唐門は関しては別途掲載させてもらうつもりですので説明は省略いたします。


唐門側から総門方向を見た伽藍の景色です。驚いたことにGoogleのストリート・ビューで建長寺の境内を見ることが出来ることがわかりました。→ ポチッ
ストリート・ビューは唐門の補修工事の期間中に撮られたことがポチッをクリックして画面内で唐門に近づくとわかると思います。

樹齢750年のビャクシン(柏槇) [鎌倉]



鎌倉で鶴岡八幡宮の次に訪れたのは建長寺でした。建長寺には樹齢が約750年のビャクシンがありました。一般家庭の庭や垣根などに植えられる木なので、まさかここまで大きくなるとは思ってもいませんでした。迫力もありました。中学生の子が2人、幹の近くに立っているので大きさを比べてください。
ビャクシンの下には牡丹が沢山植えられていました。これからが見頃だと思います。

750年以上の樹齢のビャクシンは日本国内で多数ありますが、胸の高さでの幹回りが6.5mはかなりのものです。もちろんこれを超えるものはありますが、これほどの幹回りは珍しい方に入ります。
ビャクシンで最も有名なのが大瀬崎で約百三十本の本数ならびに千年超える樹齢により天然記念物に指定されています。


正式名はイブキ(伊吹)でヒノキ科ビャクシン属の常緑高木です。 別名としてビャクシン(柏槇)と呼ばれています。果物のナシ(梨)の赤星病の宿主になる木であることから梨園の近くでは規制されることでも有名です。
昭和59年(1984年)時点で樹齢が約730年と推定されています。それから28年が経っているので計算的には約758年なので確実なところでは樹齢は750~760年ということになります。。宋からの渡来した初代住職(開山)の蘭渓道隆によって建長寺創建の際に種子がまかれたと書かれています。
建長寺の創建が1253年(建長5年)なので創建時に種子を蒔いたとすれば樹齢は759年となりますが、控え目に数えてタイトルは「樹齢750年のビャクシン」とさせていただきました。いずれにしても建長寺の歴史をすべて経験したきた生命体なのです。


航空写真の中心が、今回のビャクシンですが、1本だけでなく沢山のビャクシンの巨木が植っていることがわかってもらえると思います。

より大きな地図で 鎌倉 を表示
上の写真には建物が写っていなかったので建長寺らしい写真も紹介いたします。こちらが仏殿とビャクシンです。左側のビャクシンが紹介した一番大きなビャクシンです。


こちらはビャクシンと法堂です。冒頭の写真と同じアングルです。同じ中学生の子が立っているのがわかってもらえると思います。


ビャクシンの後ろの建物は三門です。ここには2012年4月18日に訪れたので今はボタンが満開のような気がします。沢山の棒には蛇の目笠が建てられていると思います。

鎌倉では人力車が大流行 [鎌倉]



鎌倉の記事の続きです。すでに牡丹園町並古い郵便ポストを紹介しています。今回は鎌倉で沢山走っていた人力車を紹介します。最近では日本の有名な観光地には必ず人力車があります。
最近では京都と北海道の小樽でお目にかかりました。それて比べても鎌倉の人力車の数が多かったように感じました。乗っている人力車も沢山見かけました。
この写真は鶴岡八幡宮の入口の鳥居の前です。左側の引き手の人は後でもう一度、登場します。

ネットで調べると「えびす屋」と言う全国店があり、そのお店は「京都嵐山総本店」「京都東山店」「小樽店」「雷門店」「奈良店」「宮島店」「関門店」「湯布院店」で展開していました。最近行った湯布院でも人力車を見かけました。料金は設定された一区間(1km程度)で2000円/一人 or 3000円/ニ人です。60分貸切で9000円/一人 or 15000円/ニ人でした。鎌倉での「えびす屋」の設定コースは下記の通りでした。貸切はいろんな時間で設定できるようなので現地で相談してみてください。
クリックすると別の写真  三ノ鳥居遊覧コース
  二ノ鳥居 ~ 鶴岡八幡宮
  長谷駅 ~長谷寺(または大仏)
  鎌倉駅西口 ~ 銭洗弁財天
引き手の人を車夫あるいは俥夫と呼びます。全国で最も古い車夫の方は鎌倉の老舗の「有風亭」の青木登さんと言われています。人力車をはじめられたのが今から29年前の1983年*だそうです。1948年3月下旬生まれで64歳になる青木登さんは、いろんな伝説を作られたのでしょうね。まさに伝説の人です。右上の昔の青木登さんの写真はネットから拝借いたしました。今が一番、気持ちのいい季節なのかもしれません。乗っている皆さんも気持ちよさそうでした。 *:2008年の記事で人力車を始めて25年と書かれていました。


この写真の中だけで4台の人力車が写っています。かたまって走っていたので同じ仲間の人なのかもしれませ。


こちらは笠をかぶったスタイルです。こちらは全国店の「えびす屋」の法被(はっぴ)を着ておられました。


この人が冒頭の写真の左側の人です。走っていく方向は鎌倉駅西口なので、どこかでお客さんを降ろして、駅に戻っているのだと思います。写真付の証明書を持っておられたので、踏切で待っているときに、免許がいるのかと聞くと「研修を受けると人力車を引くことが出来る」との答えでした。遮断機が下りている間にお話をさせてもらいました。ちなみに彼の名前も青木さんだったと思います。第二の青木登さんになるのでしょうか。もし、この人を見つけたら人力車に乗ってあげてください。
人力車に書かれていた彼の名前を検索していて、驚いたことに「えびす屋」サイトでこの方のプロフィールが紹介されていました。→ポチッ
現時点で鎌倉の「えびす屋」所属の方が23名おられることもわかりました。
ということは全国の俥夫の方もわかるということです。人数を調べてみました。 
嵐山62名 東山47名 小樽15名 雷門48名 鎌倉23名 奈良15名 宮島 5名 関門13名 湯布院14名の合計242名でした。それ以外に鎌倉力車(東京力車)14名有風亭飛車があります。


こちらは鎌倉駅の西口です。駅から降りてくる人を待っているのだと思います。

ネットで記載されていた伝説の人、青木登さんの言葉を紹介します。
青木登1983年、青木さんは飛騨高山の人力車店から譲ってもらった1台の人力車を携えて、北鎌倉に居を移した。「人力車は、道路交通法上は自転車と同じ。免許も何もいりません。でも、人を乗せて道を走る以上、事故だけは絶対に起こしてはならないと心に誓いました」と、当時を振り返る。
人力車は人を乗せたバランスが肝心。うっかり俥夫がかじ棒を離せば、客は後頭部から地面に叩きつけられることもある。青木さんは自分で研修期間は3ヶ月間と決めると、まずは、無人で人力車を引いて鎌倉の町を走った。そして、走る自信がついたところで、「練習ですから」と無料で乗ってもらい、お客さんを乗せて走る練習に励んだ。
鎌倉は坂が多い。谷(やつ)と呼ばれる細い谷や坂道は鎌倉独特の景観だ。人力車が危険なのは、登るよりもスピードが出る下りのほうだ。人力車のブレーキは俥夫の足だけ。そして、急には止まれない。車が通れないばかりか、人力車が壁を傷つけそうな狭い路地もたくさんある。
しかし、そんな道こそ人力車でしか味わえない醍醐味がある。だから、細い路地を走るコツも覚えた。ただ人を運ぶだけでなく、観光ガイドの役目も負う人力車の仕事は、道と街を知ることが大切だと悟った青木さんは、研修期間中、鎌倉中をくまなく走ってみた。
そんな青木登さんには円覚寺門前で会えるそうです。

今から143年前の1870年(明治3年)3月22日が日本の人力車が生まれた日(人力車の営業願いを提出した日)だそうです。その記事の内容も紹介します。ただし2年前の記事なので現在の人力車の台数は500台よりは格段に多くなっていると思います。
1886年時は明治時代初期、移動の手段が駕籠や馬車などと限られていた時代、もっと手軽な乗り物を作ろうと立ち上がった男たちがいた。元町役人の和泉要助、八百屋の鈴木徳次郎、車大工の高山幸助の3人は、人間が二輪車をひく「人力車」を発明に成功。明治3年に東京府(現東京都)に人力車の営業願いを提出。翌年に日本橋で初の人力車営業が始まると、瞬く間に普及した。営業初年度だけで、1万台以上。開業5年で全国に11万台。クリックすると拡大最盛期には21万台にものぼり、庶民のタクシーとなった。 しかし、大正に入り、市街電車や自動車が普及すると、人力車は急速に衰退の一途をたどる。昭和10年代までに、ほとんどの人力車が姿を消したのだった。しかし、それから40年近く過ぎた昭和51年、岐阜・高山で観光用として復活を遂げる。これをきっかけに、観光地を中心に増え続け、現在は約500台にまで普及。目的を変えて生まれ変わった人力車は、その長い歴史とともに、今も走り続けている。

タグ:鎌倉 人力車

鎌倉では古い郵便ポストが健在でした。 [鎌倉]



鎌倉駅と鶴岡八幡宮を真っ直ぐに結んでいる若宮大路には昔の建物が残っていました。ふと見ると昔の郵便ポストもありました。この写真の右端を見てください。

さっそく写真に収めさせていただきました。表示をみると一日に2度ほど郵便物を集めに来るようです。
この郵便ポストは正式には郵便差出箱1号丸型と呼びます。この郵便差出箱1号丸型は、今から64年前の1949年から使われ始めたそうです。本体は高さ約135cmで直径約40cmです。高さ約135cmというのは現在使用されているポストの中で最も高いものだそうです。現在設置されているポストは、1号丸型、1号角型、 2号、3号、4号、特4号、6号、7号、8号、9号、10号、11号、12号、 13号、14号の15種類だそうです


以前に掲載した「鎌倉の町を散策」の中の地図です。緑色のマークのところがポストの位置です。

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鶴岡八幡宮 [鎌倉]



鎌倉では鶴岡八幡宮の神苑ぼたん庭園を紹介しましたが鶴岡八幡宮自体はこちらで紹介いたします。鶴岡八幡宮は、あまりにも有名なので、ご存じの方も沢山おられると思いますが、私のように一度も行ったことがなかった人のために写真を掲載いたします。私は鎌倉が初めてでした。上の写真はJR鎌倉駅から鶴岡八幡宮へ真っ直ぐに伸びている若宮大路の真ん中の歩道です。

真っ直ぐに歩いてくるとここに来ます。この写真は鶴岡八幡宮の入口に大鳥居側からJR駅側を撮ったものです。


上の写真の場所から鶴岡八幡宮側を撮ったものです。ここからが境内ということになります。この鳥居は「三の鳥居」です。
言葉の通り「一の鳥居」と「二の鳥居」があります。「二の鳥居」は「三の鳥居」と同じように朱色の大鳥居です。「一の鳥居」は石の鳥居です。


右の朱色の鳥居が「二の鳥居」で、白く見えるのが「一の鳥居」です。
三つの鳥居を緑のマークで示しました。上から「三の鳥居」「二の鳥居」「一の鳥居」の順です。空色のマークは鶴岡八幡宮境内の中のいろんな建物などです。マークをクリックすると名前を表示します。
三つの鳥居ともに徳川四代将軍家綱によって御影石の石造で建てられていましたが、関東大震災で三つともに倒壊しました。現在の鳥居は「一の鳥居」のみ1937年に元通りに石造りで再建されて、残りの二つはコンクリート造となっています。
「一の鳥居」はJRの線路越えたところで歩いたルートからは、はずれていて写真を撮らなかったので右の「一の鳥居」の写真のみネットから拝借いたしました。
一の鳥居から本宮まで線を引いてみましたが3つの鳥居と本宮が、一直線に並んでいることがわかりました。

より大きな地図で 鶴岡八幡宮の鳥居 を表示
三の鳥居の下から鶴岡八幡宮を見た景色です。雨や曇りの天気が続いていましたがこの日(4月18日)だけきれいに晴れました。おかげで素晴らしい景色に出会えました。
太鼓橋があります。


その太鼓橋ごしに見た鶴岡八幡宮です。この太鼓橋は、1182年(寿永元年)、源平池が造営された際に架けられたものと考えられているそうです。当時は朱塗りの板橋であったことから、「赤橋」(あかはし・あかばし)と呼ばれていました。


太鼓橋の横からの姿も紹介します。


太鼓橋脇から見た鶴岡八幡宮です。


参道を歩きながら見える鶴岡八幡宮の景観です。屋台がある景色も神社の参道の風物です。


鶴岡八幡宮側から入口の大鳥居の方向を見た景色です。


入口で清めを行う手水舎(てみずやorちょうずや)は立派でした。水盤舎(すいばんしゃ)とも呼ばれています。


柄杓(ひしやく)が置かれた脇には
 手水の作法
  先ず 両手を清め
  次に 清水を掌(てのひら)に受けて口をすすぎます。
      柄杓(ひしやく)には口をつけないでください。  社務所
と書かれていました。


鶴岡八幡宮の本宮(上宮)です。
大石段の左側に四角く清められた場所が有名な大銀杏があった場所ですが2010年3月10日4時40分頃に、強風のために根元から倒れました。
倒壊したことを忘れないようにネットの写真を拝借して右に掲示しました。


源実朝は1219年(建保7年)1月27日に源頼家の子で八幡宮の別当を務めていた公暁によって大石段で暗殺されたそうですが、その時に身を隠していたのが、この銀杏の木であるとの伝説があり、隠れ銀杏という別名がありました。ただし、あくまでも伝説で真意はわかっていません。1955年に神奈川県の天然記念物に指定され、鶴岡八幡宮のシンボルとして親しまれていました。樹齢は800年とも1000年余とも言われていました。
倒れた大銀杏は3つに切断され、根元から高さ4メートルは元あった場所から左7mの場所に植えられました。その株もこの写真で確認できますが、ほんとうに大きな銀杏の木だったことが実感できます。右の写真はネットから拝借した元気な頃の大イチョウです。近未来Ⅱさんの記事へTB→ポチッ


鶴岡八幡宮は、源頼朝が鎌倉に幕府を開く100年以上前の1063年(康平6年)に、源頼義が「源氏の氏神」である京都の「石清水八幡宮」を由比郷鶴岡に勧請した鶴岡若宮(由比若宮)がその始まりです。
1180年(治承4年)に鎌倉に入った源頼朝は、鶴岡若宮を小林郷北山(現在の地)に遷して「鶴岡八幡宮新宮若宮」とし、武家の都市づくりの中心に据えたそうです。
1191年(建久2年)に火災によって焼失しましたが、頼朝は若宮を再建するとともに、大臣山の中腹に本宮を新造し鶴岡八幡宮とし、現在の本宮(上宮)と若宮(下宮)のある姿になったそうです。
こちらが本宮(上宮)へ登る大石段の右側(東側)にある若宮(下宮)です。


若宮(下宮)は横からでは全体がわからないので上から見た屋根の写真を紹介します。若宮や本宮があることはネットで調べて知りました。このときはきれいな曲線の屋根の写真を撮っただけでした。そして後で。若宮の屋根であることを知りました。


こちらの写真は本宮(上宮)に上がる大石段です。正面が鶴岡八幡宮の象徴である随身門です。


随身門からの景色です。大石段の正面下には舞殿があります。下拝殿とも呼ばれます。ここから沢山の人が本宮の写真を撮る場所でもあります。正面方向がJR鎌倉です。オリジナルの大きな写真では3つの鳥居が一直線に並んでいるのがわかりました。


舞殿のななめ横からの姿です。境内入口の大鳥居から最初に見えるのがこの舞殿だったのです。


随身門の両側には随身(貴人警護にあたる武人)が鎮座していました。


随身門脇には沢山の絵馬がかけられていました。これだけ並ぶと見事でした。


随身門をくぐるとすぐに本殿です。


本殿の屋根も芸術的でした。


本宮の回廊(宝物殿前)には7基の神輿(みこし)が並べられていました。、本宮の神輿が3基、若宮の神輿が4基だそうです。神幸祭で渡御する神輿は本宮の3基だそうです。
これらは桃山期から江戸初期のものと考えられ、若宮の神輿は本宮の神輿よりやや小柄で簡略化されているそうです。7基ともに神奈川県の有形民俗文化財に指定されています。1821年(文政4年)の火事では、諸堂は焼失してしまいますが、神輿は英勝寺に移されて無事だったと伝えられています。


本宮脇には明治天皇鎌倉御野立所と書かれた石碑がありました。明治6年4月15日に日本で初めての陸軍攻防演習が鎌倉で行われたそうです。その時に明治天皇は4月14日に鎌倉に行幸し、八幡宮裏の大臣山から閲兵された記念碑だそうです。この小道の奥が、その場所なのでしょうね。


ここから境内で気になったものを紹介いたします。左側の2つの丸い石は鶴亀石です。石の真ん中にたてられて説明書きには「記 相模國風土記稿に水をもって石面を洗う時は鶴亀の紋様が輝きあらわれると記され 大変めでたい石である」とありました。右の石の柵で囲われたところは由比若宮遥拝所です。


由比若宮遥拝所と鶴亀石の近くにあるのが白旗神社です。1200年(正治2年)に北条政子が朝廷から「白旗大明神」の神号を賜り創建したのが、白旗神社(祭神:源頼朝)と伝えられています。源頼家の創建との説もあるそうです。黒漆塗極彩色の社で「武衛殿」と呼ばれた。「武衛殿」の扁額は、幕末の島津藩の実質上の最高権力者島津久光の筆と伝えられています。
最初は鶴岡八幡宮上宮の西側にありましたが1885年(明治18年)に源実朝を祀る柳営社と合祀され、現在の場所に遷されたそうです。現在の祭神は、源頼朝と源実朝だそうです。例祭は5月28日に行われるそうです。


奉納(奉献)された沢山の酒樽も見事でした。


鶴岡八幡宮の参道の途中に右に折れの道があり、その道の両側に沢山の旗がありました。それは旗上弁財天社に向かう道でした。 旗上弁財天社の源氏池に浮かぶ島に建てられた神社です。
源頼朝の旗挙げに家運長久の守護神として弁財天が現れ霊験があったと伝えられ、北条政子が建立した伝わっているそうです。


こちらが源氏池の中の島に建つ旗上弁財天社です。参道や島には、奉納された源氏の二引の白旗が並んでいるのが印象的でした。
弁財天は仏教の守護神であることから、明治の廃仏毀釈で破壊されましたが、鶴岡八幡宮創建800年にあたる1980年に、文政年間の古図をもとに現在の社殿が復元されたそうです。
祭神は「多紀理毘売命(たぎりびめのみこと)」「市寸嶋比売命(いちきしまひめのみこと)」「多岐都比売命(たぎつひめのみこと)」です。

鎌倉の町を散策 [鎌倉]



初めて鎌倉に行ったときのことです。鎌倉では最初に鶴岡八幡宮に行き、そのあとはすでに紹介している神苑ぼたん庭園で牡丹を見ました。そこで12時近くになったことから鎌倉駅の近くで昼食をとることにしました。上の写真は鶴岡八幡宮から駅に真っ直ぐに向かう若宮大路の真ん中の歩道です。

下の地図の赤いラインを散策しながら鎌倉駅まで向かいました。途中で気になったお店の写真を撮りました。その気になったお店の写真を鶴岡八幡宮に近い順番(撮った順番)に紹介いたします。水色のマークが今回紹介しているお店です。マークをクリックすると店名を表示します。その住所と正確な位置は写真に写っている店名などからネットで検索しました。黄色のマークは写真を撮った十字路と踏切です。赤色のマークは食事をした場所です。青色のマークは鶴岡八幡宮の神苑ぼたん庭園です。緑のマークは古い郵便ポストがあった場所です。

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鶴岡八幡宮から駅に真っ直ぐに向かう道沿いにあった趣のあるお店です。店名は三河屋本店と書かれていました。ネットで調べた結果、三河屋本店は、明治33年創業の酒店で、現在の建物は昭和2年に建てられたそうです。伝統的な出桁(だしげた)造りの店構えは、若宮大路の沿道でひときわ目を引く存在のようです。敷地の奥にある蔵や商品の運搬に使うトロッコなど、昔ながらの商文化が大切にまもられているそうです。
三河屋本店は、鎌倉の戦前の商店建築を代表するものとして貴重な建物だそうです。
鎌倉の景観重要建築物33の中の一つ(指定22号)で詳しくネットでも紹介されていました。景観重要建築物には2002年4月1日に指定されました。 緑色の住所の文字をクリックするとストリートビューを表示します。
  住所 神奈川県鎌倉市雪ノ下1丁目9−23
  電話 0467-22-0024
      木造2階建、蔵は木造平屋
      延べ床面積/352.64平方メートル
      蔵/83.88平方メートル
      屋根/桟瓦葺き切妻および寄棟
      蔵/波型鉄板葺き切妻
      外壁/押縁下見板張り、一部土壁
      蔵/土壁、腰部は鎌倉石積み
      http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/keikan/ks22.html


この銀行らしからぬ建物は元ラルフローレン鎌倉店です。ラルフローレン鎌倉店が閉店した後に2009年2月16日に三井住友銀行・鎌倉支店がオープンしたそうです。鎌倉らしいレトロな雰囲気の建物が残ってよかったです。
  住所 神奈川県鎌倉市雪ノ下1丁目9-33
  電話 0467-25-6821


スイーツのお店のようです。ネットで調べると下記のような記載でした。
鎌倉の若宮大路沿いの雑貨&古民家カフェ「蔵楽(KURARA)」です。
見るからに女の子受けしそうなお店です。カフェの入り口は雑貨店の奥にあります。
ここの特徴は冬場の「掘りごたつ」です。古民家を活かした店内で、こたつに入りながらいただくコーヒーもなかなかいいものです。ココはお抹茶もいただけるそうです。
  住所 神奈川県鎌倉市小町2-13-2
  電話 0467-55-5001


こちらも若宮大路沿いの山中材木店と鰻屋さんの茅木家です。
 山中材木店
  住所 神奈川県鎌倉市小町2丁目11−14
  電話 0467-22-3116
 茅木家(かやぎや)
  住所 神奈川県鎌倉市小町2丁目11−16
  電話 0467-22-1460


若宮大路を左に曲がって最初の十字路から鎌倉駅の方を見た写真です。
水曜日の昼にかかわらず沢山の人が歩いていました。上の地図で十字路の黄色のマークのところです。


JRを渡る踏切です。踏切も風情があります。左の踏切の文字をクリックするとGoogleのストリートビューが表示されます。ただし下の写真の反対側の遮断にしています。
この踏切の位置も地図に黄色のマークを立てました。


古本屋さんの游古洞です。こちらのお店は探すのに苦労しました。
  住所 神奈川県鎌倉市御成町13−30
  電話 0467-23-1967


こちらは手仕事雑貨店の「さかゑ」です。女性のお客さんだ沢山入っておられました。
  住所 神奈川県鎌倉市御成町13−12
  電話 0467-23-5573
  HP   http://www.sakae-kamakura.com/


食事はJR鎌倉駅の裏(西口)にある、とんかつ屋の勝烈庵を選びました。勝烈庵は今から85年前の1927年(昭和2年)に横浜で開業した老舗のトンカツ屋さんです。当時、横浜の外国人コックが居留地関内にもたらしたカツレツを初代庵主の工夫で独特の和風カツレツとして完成させたのが始まりだそうです。今は横浜に3店舗、鎌倉に1店舗あるようです。


鎌倉花ごよみ定食1750円を頼みました。内容は、ヒレかつ又はロースかつ、おろし大根、鎌倉野菜サラダ、香り物、ご飯、しじみ椀です。私はヒレかつを選びました。ご飯とキャベツはお代わり自由です。


2日間煮込んで1日寝かした秘伝のソースでいただきました。


しじみ椀のシジミには小粒のものが使われていました。


JR鎌倉駅の裏側(西口)です。こちら側に、とんかつ屋さんがありました。


こちらが鎌倉駅の表側(東口)です。バス停やタクシー乗り場があり、ここから鶴岡八幡宮に若宮大路が真っ直ぐに飲み゛田鎌倉の表玄関口です。


神苑ぼたん庭園 鶴岡八幡宮 [鎌倉]



先週の水曜日(2012年4月18日)に外国の方の案内で鎌倉に行ってきました。最初に行ったところが鶴岡八幡宮でした。鶴岡八幡宮のなかに神苑ぼたん庭園があり、鶴岡八幡宮を見た後に神苑(しんえん)ぼたん庭園に入ってみました。牡丹がちょうど見頃だったので紹介いたします。

神苑ぼたん庭園の入口です。こちらのぼたん園の見頃は4月上旬から5月上旬で、満開のぼたんもあれば花が開いていないのもありました。


右が拝観券で大人500円でした。団体400円、中高生200円と書かれていました。どうやら子供は無料のようです。左の写真のように、ぼたんの木、一本一本に蛇の目傘が建てられている景観も素晴らしいものがありました。ぼたん庭園には、約100品種1000株の牡丹」が植えられいるそうです。傘の数もすごいはずです。
今もきれいですが1月1日から2月下旬まで「冬ぼたん」も楽しむことが出来るそうです。


先ずは蛇の目傘とぼたんの花を楽しんでください。沢山の傘が道の両側に並んでいる景観には圧倒されました。


中間地点ににある門も趣があります。


ここから牡丹と傘を楽しんでください。


ピンクと濃赤の花です。


紫に近い色の牡丹もありました。


沢山の牡丹と傘に圧倒されます。


傘だけでなく葦簀(よしず)にも守られています。


もう一方の入口に近いところです。神苑ぼたん庭園は通り抜けが出来るような配置になっています。それぞれが入口であり出口です。


こちらの花も見事に咲いていました。


入口近くにあった見事な紅の牡丹です。


その紅の牡丹の花を拡大いたしました。


沢山の白い花をつけた牡丹もみごとでした。


こちらのピンクの牡丹の花も見事に咲いていました。傘のおかげで花が傷んでいないのだと思います。


見事な大きな花を紹介いたします。


こちらは淡いピンクの花です。花びらが見事です。


このピンクの色もきれいです。花びらも素晴らしいです。


鶴岡八幡宮の神苑ぼたん庭園は、源氏池の畔に造られた細長い廻遊式の日本庭園でした。このように座って池を眺めるのも牡丹を眺めるのもいいですね。この牡丹庭園は1980年(昭和55年)に鶴岡八幡宮の創建800年を記念して開園したそうです。


これが源氏池です。この南側のL型の敷地に神苑ぼたん庭園があります。クリックするとGoogleの大きな航空写真を表示します。
空からでも拡大すると蛇の目傘を見ることが出来ます。→ポチッ
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