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開封の歴史 包公祠 [河南省]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

名裁判官「包公」を祭ったお寺です。この中に包公の銅像があります。皇帝の息子を死刑にしたことがもっとも有名な伝説です。よほどの信頼と権限がないと出来ない言うことだと思います。
皇帝の息子の罪は現代風に言えば不倫だそうです。 不倫で死刑? 昔は厳しかったんですね。

日本のお寺の雰囲気もあります。包公は1000年前の人です。


建物の中には大きな銅像がありました。
高さは3メートル、重さ2.5トンの包公の銅像です。包公は開封に首都があった北宋時代の人で、中華圏では子供から老人まで、あらゆる世代に知られた人物です。若い頃は故郷の合肥で学問に励んで、1027年、29歳で科挙試験の進士に合格し、多くの官職/文官を務めた人物です。生前から庶民に人気がありましたが、没後に名声はさらに高まり、特に南宋、元以来、包公故事(伝説)は広く語り伝えられたそうです。その結果、庶民に崇拝される典型的な人物像が作り上げられ、後世の人々に伝えられていったそうです。クリックすると拡大
包公は清官(清廉潔白な官吏)の代表とされたそうです。
  名前 包拯  包公あるいは包青天と呼ばれた。
  生涯 999年(咸平2年 生)~1062年(嘉祐7年 没)
  出身 廬州合肥  現在の安徽省合肥


銅像の設置された部屋です。


こんな石碑もありました。


こちらの建物も趣がありました。
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真中に石碑があります。
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でも朱色は中国の雰囲気ですね。
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こちらが入口の門です。
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お寺の前の通りです。普通の道です。ほとんどがこんな雰囲気なんです。復元された町並みは沢山ありましたが、昔の古い街並みは少ししか残っていないそうです。京都はもっと昔の街並みが多いですね。


こちらが入場券です。開封の報告は終了しました。開封関係の記事をまとめてみました。タイトルをクリックすると記事を表示します。
クリックすると拡大 開封の生活道路
 開封は鳥を飼う人が多い町でした。
 開封の道教のお寺 延慶観
 開封の歴史 包公祠
 開封で最も有名な寺院 大相国寺
 古都「開封」の行列の出来る肉まん屋さん
 古都「開封」の行列の出来る甘栗屋さん
 古都「開封」の街並み
 平原の太陽
 「東京」と呼ばれた北宋の古都「開封」
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河南省には、中国八大古都のうち、4つの古都があります。殷の都の安陽と、東周から長く都が置かれた洛陽と、宋の都であった開封と、殷の都邑であった鄭州です。
ちなみに中国八大古都とは西安、洛陽(洛阳)、南京、北京、開封(开封)、杭州、安陽(安阳)、鄭州(郑州)です。開封は宋の時代には東京と呼ばれていました。西京に相当する西安は漢代(BC200年)に長安と命名され唐代の7世紀には世界最大の都市に成長しました。西都、西京、大興、中京、京兆、奉元と呼ばれた時期もありました。明の時代から西安と呼ばれるようになりました。
  四大古都 : 西安、洛阳、南京、北京
  六大古都 : 西安、洛阳、南京、北京、开封、杭州
  七大古都 : 西安、洛阳、南京、北京、开封、杭州、安阳
  八大古都 : 西安、洛阳、南京、北京、开封、杭州、安阳郑州
左の地図の赤色に塗られた部分が河南省で、右の河南省の地図で橙色に塗られたところが開封市です。河南省の人口は9869万人で中国で一番人口の多い省で、人口密度は591人/km²の省です。開封市の人口は527 万人で、日本の戸田市と伊賀市と伊勢市と下諏訪市の4つの市が姉妹都市となっています。
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タグ: 開封

古都「開封」の行列の出来る肉まん屋さん [河南省]


上海には行列の出来る1個9円の肉まん屋さんがあります。開封の書店街にも行列の出来る肉まん屋さんがありました。値段は一個6円でした。さっそく買って食べました。 

お店を正面の写真も掲載します。看板には「大梁包子館」と書かれていました。読み方は判りません。


お店の中では派手な帽子をかぶったおばさんが仕切っていました。 
町の中を散策した後なので、格別においしく感じました。
ネットで検索してみると住所は「開封市南書店街76號(开封市南书店街76号)」と書かれていました。

タグ:肉まん 開封

古都「開封」の行列の出来る甘栗屋さん [河南省]

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開封の書店街の中に行列がありました。よく見ると甘栗屋さんでした。さっそく買ってみることにしました。袋も趣きがありました。この甘栗はすごくおいしかったです。値段は500gが8元(152円)でした。以前にも別の町で甘栗を買って食べたことがあります。今回の甘栗はほんとうにおいしかったです。日本まで持って帰りましたがすごく好評でした。行列の出来ることは納得いたしました。

隣も甘栗屋さんでした。混んだ方のお店で買いました。場所は開封市書店街です。お店の看板には「岳記老店」と「蜜制油栗」と書かれていました。制は製の省略文字だと思うので日本語では「蜜製油栗」となるのだと思います。
上の袋には下記のように住所と電話が書かれていました。
 総店:開封市書店街1号(鉸子館)または(餃子館)
 電話:5973325(総店)


甘栗は冷えないように布団をかぶしてあります。熱々です。


製造直売です。ものすごい勢いで造っていました。

タグ:開封

古都「開封」の街並み [河南省]


ここは古都「開封」の昔の雰囲気を残している場所です。通りの名前(住所)は開封市南書店街(开封市南书店街)です。この通りでは名前のように書籍にかかわるものが沢山売られていました。
町全体ではこのような街並みは取り壊されてほとんど残っていないとのことなので残念です。でもところどころに残っているそうです。

上の写真はこの写真の左側の部分で書店街の入口です。


おじさんがリヤカーを引いていますが荷物は練炭です。まだまだ練炭が主役の世界のようです。


その練炭を運んでいるところです。


練炭を降ろしているところです。


もう少し奥に入っていったところです。


赤いちょうちんがあるお店はレストランのようです。


反対向きでも撮ってみました。


眼鏡屋さんてすぐに判りますね。でも開封市人民第一医院とも書いています。眼科かも知れないですね。


少し形の違った所もありました。建てられた時代によって形が違うのでしょうか。

タグ:街並み 開封

開封の生活道路 [河南省]


北宋の首都であった開封(当時の呼び名は東京)は、いろんな時代を経験した歴史のある町です。しかしながら京都と違い、古い町並みは復元されたものを除いて、残っているのは少ないと言われました。そこで昔ながらの街並みを見たいと三輪自転車の人に頼んだ結果ここに連れてきてくれました。目的とした古い町並みではないけれど小さな路地ですが両側に沢山のお店が並んでいます。まさに昔からの生活道路でした。この後に、その三輪自転車に乗って復元された古い町並みの場所に行きました。

野菜屋さんです。上の写真の右側のお店です。


細い道が続きます。


さらに奥に進みました。両側でビーフンを売っています。


生の大きな唐辛子を見つけました。


広い道路に出ました。ここもお店が沢山あります。


お好み焼きのようなものを焼いています。


こんなパンの焼き方をしていました。上の蓋を閉めるとオーブンになるとともに上の鉄板で焼くことが出来るんですね。


すごい火力です。沢山の鍋があります。


唐辛子屋さんです。


その唐辛子屋さんに立っていた趣のある旗(幟)です。
書いてある文字は読めませんが、なんとなく伝わってきます。
書いてある文字を並べてみました。「王记」は日本語では「王記」で、店名などに良く使われていました。「老店」は「老舗」で、「批发」は「卸売」を意味しています。
  王记
  瓜子老店
  大量批发
  保証質量
  加工花生

唐辛子屋さんの名前は「王记」ではないので隣りのお店の幟かもしれません。確かに隣りのお店には落花生らしいものが沢山売られていました。
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唐辛子屋さんの名前を別の写真で確認すると「順天干??零商店」でした。??は複雑な文字なので読み切れませんでした。クリックすると拡大するので、どなたかが読んでいただければ幸いです。
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タグ:街並み 開封

開封の道教のお寺 延慶観 [河南省]


ここは古都「開封」の唯一の道教のお寺である延慶観(延庆观 イアンチングアン)です。この写真はその中の最も有名な建物である玉皇閣です。創建当初の元時代の建物だそうです。延慶観は全真教(道教の一つの派)を開いた王重陽(1112年~1170年)を記念して1233年(元太宗5年)に建てられた道教の建物で、当初の名前は重陽観でしたが1373年(明洪武6年)に延慶観に改名されました。

玉皇閣(玉皇阁)の中です。
祀られている像は、道教の全真教を開いた王重陽だと思います。王重陽を王詰 と記載している記事もありました。


玉皇閣の裏側の建物です。


その建物の中です。こちらは全真教を広めるつくした弟子で七真人と呼ばれる馬丹陽、譚長真、劉長生、丘長春、王玉陽、郝広寧、孫不二の7人の中の人の可能性があると考えています。


玉皇閣の前で線香をあげていました。道教は中国三大宗教の一つです。中国三大宗教とは儒教、仏教、道教です。道教は「道家」「道家の教」「道門」「道宗」「老氏」「老氏の教」「老氏の学」「老教」「玄門」などとも呼ぶことがあります。道教の派閥を大きく分けると正一教と全真教になります。


こちらが入場券です。
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開封の町の位置を紹介いたします。河南省の省都である鄭州の東にある中国でも最も歴史が古い都市の一つであり、北宋の首都でもありました。


右のマークが入口の門にありました。


道教の陰陽魚太極図→




大極図は白い部分と黒い部分を魚に見立てて「陰陽魚」とも呼ばれています。また、もともと「陰陽儀」だったのが、発音が近いため「陰陽魚」になったとの説もあります。作られた当初は「天地自然河図」と呼ばれていたそうです。白い部分は、「陽の気」を表し、黒い部分は「陰の気」を表しているそうです。大きな白い部分の中の黒い点は「陽」の中に「陰」があることを表し、同様に、大きな黒い部分の中の白い点は「陰」の中に「陽」があることを表します。「陰」と「陽」の基本的内容は次の通りだそうです。
  陰・陽は互いに対立・制約する
  陰・陽は互いに依存し,単独では存在しえない。
  陰・陽の消長と平衡
  陰・陽の相互転化
タグ:開封 北宋

開封は鳥を飼う人が多い町でした。 [河南省]

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中国河南省の開封の大相国寺の境内で、鳥籠を沢山見かけました。いい雰囲気の趣味ででした。鳥の種類は「画眉鳥(ガビチョウ)」のようです。画眉鳥は中国南部から東南アジア北部にかけて広く生息しています。右下の画眉鳥の写真はネットから転用させてもらいました。クリックすると拡大日本では、ペットとして輸入された個体が逃げて定着して南東北、関東、中部、九州北部で沢山見られるようです。我家の近くでもよく見かけるようになりました。そんなこともあり、日本においては、画眉鳥は特定外来生物に指定されていて、届出をしなければ飼育することは出来ません。場所が違えは扱いも違いますね。
本種が多く観察されるポイントとして、東京都内では高尾山が有名だそうです。体長約 22-25cmで、嘴と尾が長いく、体色は全体的に茶褐色でかなり地味であるが、眼の周り及びその後方に眉状に伸びた特徴的な白い紋様を持ちます。嘴の色は黄色で、 かなり大きな音色で美しく囀ります。ウグイスやキビタキ、オオルリ、サンコウチョウといった他種の囀りをまねることがあるそうです。

鳥売りかな? それとも自分の鳥を運んでいるのかな?
これを見ただけでも開封は鳥を飼う人が多い気がします。
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日本だと、高そうな立派な籠でした。
ガビチョウ(画眉鳥)の鳴き声に興味をもたれた方も多いと思います。そこで、別の場所で撮影した動画をYouTubeに登録いたしましたので、鳴き声を右の動画で紹介します。見ての通り画像は良くありませんが、鳴き声はよく聞こえると思います。是非ともプレーボタン( )をクリックしてみてください。
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これはカナリアのようです。いろんな鳥がいました。やはり鳴き声を楽しむために愛好家が集まっているようでした。
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タグ:開封 画眉鳥

開封で最も有名な寺院 大相国寺 [河南省]

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大相国寺は大きなお寺です。敷地も広く僧侶の数も多く見かけます。北斉の西暦555年に建国寺として創建されたそうです。後に寺院は戦火で壊され、唐の西暦711年に再建されました。クリックすると拡大そして唐の睿宗が西暦712年に相王から皇帝になったことを記念して大相国寺という名前をつけたそうです。右の写真の扁額の文字から想像するに、上の建物は蔵経楼(藏經樓)のようです。

北宋時代は相国寺は皇族に深く尊崇され、何度も拡張され敷地面積は33ヘクタールとなり、64の禅院・律院、そして千人以上の僧侶がいたそうです。現在は、それほど大きくありませんが天王殿、蔵経楼、大雄宝殿、山門殿、牌坊、八角瑠璃殿(羅漢殿)などが、残されており、八角瑠璃殿の中には、高さ7mの大木で彫刻された千手千眼観音像があり、古代木彫り芸術の傑作と言われています。1992年以後、仏教活動が復活し、鐘楼・鼓楼などが再建され、この鐘楼のなかには清時代に作られた大鐘が今でも保存されています。こちらが天王殿です。33ヘクタールは0.33k㎡、つまり330m x 1000mの広さです。
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ここが入口です。門の扁額には「大相國寺」書かれています。大相国寺は、黄河の氾濫15回、兵火にかかること11回、大火6回など、大きな災害のたびに開封城と盛衰を共にしたそうです。
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こちらが入場券です。
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京都の相国寺と友好関係にありました。石碑の除幕式は1994年9月27日に行われたと、ネットで書かれていました。石碑には「佛暦二千五百三十七年佛吉祥日」と書かれていました。釈迦が入滅した翌年が元年となる佛暦2537年から543年を引くと西暦1994年になります。釈迦が入滅した年を元年とするミャンマーやスリランカでは、佛暦から544年を引くと西暦になります。
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広い敷地には沢山の建物がありまいた。この建物と同じ形の建物が左側にもありました。鐘楼と鼓楼と思われます。こちらは、清時代に作られた大鐘が保存されている鐘楼です。
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この屋根を見ると大きなお寺だと感じてしまいます。
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敷地の大きさも感じます。
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僧侶の人です。まだ若い人が多いです。
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「東京」と呼ばれた北宋の古都「開封」 [河南省]

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開封の町の入口にそびえる城壁です。この町の代表的景観です。朝日に輝く城郭がみごとでした。ここは北宋の時代に「東京」と呼ばれていた古都「開封」です。開封の記事はいくつか掲載する予定にしています。鄭州を朝早く出発して開封に8時4分に着きました。上の写真は8時35分の城壁の写真です。

開封は日本で言うと京都のような町で、あちらこちらに古いお寺が点在しています。京都と特に違うのは黄河が氾濫し都が何度も泥に埋まったために、京都に比べると昔のままに残っている建物は掘り出されたか復元されたもので、古い街並みは少ないのですが、歴史のある観光都市であるところは同じです。
ガイドさんや三輪自転車で町を案内してくれる人が沢山います。でも中国はあまりにも広いので訪れる日本の観光客の人は少ないと思います。クリックすると拡大それだけに、ここに来れたことはすごく有意義でありました。それでもネットで見ると開封を訪れた記事がいくつか出ていました。やっぱりすごいです。写真は城壁西門の大梁門と思われます。
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冒頭の城壁の朝もやの中の写真です。
開封は河南省の省都・鄭州から東に70kmです。北には殷の都の遺跡「殷墟」のある安陽があり西の龍門石窟のある洛陽とは反対側です。車で1時間半です。
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霞む門を拡大いたしました。
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鄭州のホテルから開封の大相国寺までの車のルートです。
クリックすると拡大実は鄭州から開封に向かうときに以前に紹介した幻想的な太陽に出会ったルートなのです。鄭州の町でタクシーと交渉してこの町に訪れました。半日貸切で250元でした。ところが帰りにタクシーの運転手さんに悲劇が! 
前の車に付いて変則ローターに入った途端におまわりさんに呼び止められました。進入禁止だったのです。罰金は200元! もちろん前の車も同じでした。半日も我々に付き合ってガソリン代と駐車料金を考えるとどう見ても儲けは0円です。なんとなくがっくりしていました。ホテルに着いて50元をプラスしてあげると、ものすごくうれしそうでした。もともとの相場は300元なのでお互いに気持ちよく別れるのもいいものです。
   鄭州(郑州) Hotel Sofitel Zhengzhou
   開封(开封) 大相国寺
   鄭州~開封


鄭州から上海のフライトが午後だったので早起きしてここまで足を延ばしてみる価値がありました。タクシーの運転手はこの町には詳しくないので最初に訪れた「包公祠」から地元の、この三輪自転車に乗って町を廻ることにしました。タクシーとはこの町で最大の寺院である大相国寺で待ち合わせることにしました。これに私が乗っています。

ここは開封府と言われ北宋時代の役所にあたるところです。入口を正面から撮ったものです。開封府の文字が印象的でした。
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斜めから撮りました。城壁に囲まれていました。建物自体は最近復元されたものです。
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開封も観光に力を入れ始めたようです。昔の建物を復元した施設です。洋風に言えばテーマパークです。ここは外から撮りました。沢山の建物があることが分かってもらえると思います。


そのテーマパークの中に入りました。その時の入場券です。
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左の地図の赤色に塗られた部分が河南省で、右の河南省の地図で橙色に塗られたところが開封市です。安陽市の人口は527万人で、人口密度は818人/km²の町です。驚いたことに、日本の戸田市と伊賀市と伊勢市と下諏訪市の4つの市が姉妹都市となっています。
河南省には、中国八大古都のうち、4つの古都があります。殷の都の安陽と、東周から長く都が置かれた洛陽と、宋の都であった開封と、殷の都邑であった鄭州です。
ちなみに中国八大古都とは西安、洛陽(洛阳)、南京、北京、開封(开封)、杭州、安陽(安阳)、鄭州(郑州)です。開封は宋の時代には東京と呼ばれていました。西京に相当する西安は漢代(BC200年)に長安と命名され唐代の7世紀には世界最大の都市に成長しました。西都、西京、大興、中京、京兆、奉元と呼ばれた時期もありました。明の時代から西安と呼ばれるようになりました。
  四大古都 : 西安、洛阳、南京、北京
  六大古都 : 西安、洛阳、南京、北京、开封、杭州
  七大古都 : 西安、洛阳、南京、北京、开封、杭州、安阳
  八大古都 : 西安、洛阳、南京、北京、开封、杭州、安阳郑州
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開封が首都であった北宋は960年から1127年まで167年間続きました。その頃の開封は世界最大級の都市でした。国号は宋ですが、金に開封を追われて1127年に首都を臨安(現在の杭州)に遷都した後の南宋(1127~1276年)と区別して北宋と呼び分けています。北西には西夏(1038~1227年)で、北東には遼(916~1125年)がありました。南西方向には大理(938~1253年)があり、西に吐藩と書かれているのは633~877年に繁栄したチベットの王朝で、滅亡後もチベット地域を表す言葉です。南の大越は1054~1804年までのベトナムの正式な国号です。

世界遺産 殷墟  甲骨文字発掘の町 安陽 [河南省]

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安陽は古代中国殷王朝(BC1600 - BC1046)後期の遺構である「殷墟」があった場所で甲骨文字発掘の町でもあります。その安陽に2度来る機会がありました。今回の報告は1回目の時です。ちなみに2回目は「霧による大渋滞を経験してしまいました。」の記事で紹介したのが鄭州から安陽に車で行く途中のことでした。上の写真は車馬坑です。高貴な人の古墳で、馬車や馬とを副葬した竪坑を車馬坑と言います。馬車は殷の時代より前の時代から存在ようですが、発見された中では殷墟の車馬坑が中国最古の馬車遺跡だそうです。

中国最古の車馬坑をもう少し紹介します。ここには6台の馬車が展示されていました。
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馬車の遺跡からは馬骨も発掘されました。


これは甲骨文字(こうこつもじ)の発掘の状態を再現したものです。ここの人に聞くと、ここにある甲骨文字は、すべてレプリカで、本物は、台湾や北京などに持っていかれたと言っていました。2006年7月に世界遺産に登録されてからは北京などに保管されていたものが、併設されている博物館に徐々に戻ってきているようです。
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こちらが甲骨文字ですが、Wikipediaから転用させてもらいました。
甲骨文字は、殷の後期に使われていた漢字書体の一つで、現在確認できる最古の漢字です。古代中国で生まれ発達してきた漢字と、獣骨を用いる占い(占卜)とが結びついて文字記録となったもので、亀甲獣骨文字や甲骨文ともいうそうです。甲骨文字は古来から農民により発見されていたそうですが、価値を知らないため大部分は捨てられたそうです。清の国子監祭酒(文部長官相当)であった王懿栄が竜骨と呼ばれていた骨に刻まれた文字を1899年に発見したことで、価値あるものとして発掘が行われはじめたそうです。
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甲骨文字(BC1600年~)とその後の時代の文字の比較です。金文(きんぶん)は青銅器の表面に鋳込まれた文字で、殷・周のものが有名で、年代的には甲骨文字の後(BC1300年頃~)にあたるそうです。さらに後の小篆(しょうてん)の起源は戦国期(BC403年~BC211年)の石鼓文に用いられた書体・大篆が直接の起源と言われています。BC221年に中国統一を成し遂げた秦は、各地方で独自に発達していた文字を小篆に統一したそうです。
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こちらのケースの中をよく見てください。 ご安心をレプリカです。殷墟からは人骨も沢山発掘されたようです。
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建物跡です。柱が再現されています。他の世界遺産に比べて見た目では迫力はありませんが、殷墟は約3500年前から3100年前の遺跡であることから残っているものが少ないので仕方だないのだと思います。その古い歴史に世界遺産としての価値があるのだと思います。
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発掘場所も公開されていました。
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殷墟からは沢山のものが発掘されたようです。発掘した時の状態も残されていました。
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写真の右端の石碑には「甲骨文発現地」と書かれていました。日本語だと「甲骨文字発見場所」というところでしょうか。


大型の青銅器も発掘されました。その中で最も有名な「司馬戊」鼎の大きなモニュメントも入口にありました。実物は長さ1100mm、幅780mm、高さ1330mm、重さ875kgです。北京の博物館から、こちらの博物館に移設したと聞きました。


併設された博物館は景観に配慮してか半地下になっておりました。
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左の地図の赤色に塗られた部分が河南省で、右の河南省の地図で緑色に塗られたところが安陽市です。安陽市の人口は533万人で、人口密度は719人/km²の町です。埼玉県草加市が姉妹都市になっています。
河南省には、中国八大古都のうち、4つの古都があります。殷の都の安陽と、東周から長く都が置かれた洛陽と、宋の都であった開封と、殷の都邑であった鄭州です。
ちなみに中国八大古都とは西安、洛陽(洛阳)、南京、北京、開封(开封)、杭州、安陽(安阳)、鄭州(郑州)です。開封は宋の時代には東京と呼ばれていました。西京に相当する西安は漢代(BC200年)に長安と命名され唐代の7世紀には世界最大の都市に成長しました。西都、西京、大興、中京、京兆、奉元と呼ばれた時期もありました。明の時代から西安と呼ばれるようになりました。
  四大古都 : 西安、洛阳、南京、北京
  六大古都 : 西安、洛阳、南京、北京、开封、杭州
  七大古都 : 西安、洛阳、南京、北京、开封、杭州、安阳
  八大古都 : 西安、洛阳、南京、北京、开封、杭州、安阳郑州
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殷墟を訪れた、初めて安陽に来た時は、初めての在来線での長距離列車の旅でした。今まで飛行機か車ばかりだったので8時間の列車の旅は新鮮でした。冷えた缶ビールを駅で買いこんで乗り込みました。つまみは日本から持ってきたスルメです。
ビールを飲んでいるのは我々だけ(日本人は一人)でした。外では、中国の人は宴会や会食以外は飲む習慣がないと言っていました。列車の写真は出発した湖北省の武漢の駅で撮ったものです。武漢の駅の売店でも冷えたビールは少ししか置いてなく、そのお店の人が別のお店に買いに行ってくれました。列車の中で飲む習慣がないのは事実のようです。驚いたのが、大型のスーツケースが網棚(荷台)に置けることでした。寝台ではなく軟座です。座り心地は新幹線よりはいいです。ただし座席は対面で、方向は変えられませんでした。対面の椅子の間に机があります。
途中から赤ちゃん連れの人が前に座り、その赤ちゃんにおしっこを少しだけかけられてしまいました。田舎はオムツなしなのです。安陽から北京も列車で移動いたしました。
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霧による大渋滞を経験してしまいました。 [河南省]

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この日は車で中国の鄭州から殷墟のある安陽への1時間50分の移動の移動の予定でした。1時間20分は霧も薄く順調に走ってこれました。しかし急に霧が濃くなってきました。そして突然渋滞です。今回の記事では上の写真だけクリックすると拡大写真を表示するように設定いたしました。
上の写真は渋滞直後30分ぐらいの9時51分の写真です。少し霧が晴れてきましたがトラックの後ろは見えません。渋滞直後の霧は、さらに濃かったです。そしてこの同じ場所で4時間15分停まったままでした。
そのため1時間50分の道のりのはずが7時間かかってしまいました。
あまりに長い渋滞だったので我々が外国人であることから閉鎖されている反対車線を別の車で迎え来ることも段取りしてくれていましたがその前に何とか動き始めました。

われわれの直前にいたパトカーも渋滞で走るのあきらめました。


少し霧が晴れてきました。すごい車の数です。ほとんどが長距離大型トラックです。


さらに霧が晴れてきました。我々の後ろにもパトカーがいました。この時、10時42分で渋滞から1時間半が経過したところです。この後晴れてきましたが、さらに同じ場所に2時間45分停まったままにとなりました。不思議に思い、知り合いの中国の人に歩いて前に歩いて見に行ってもらいました。


すると500m先で追突事故がありました。ここから下の写真は前を見に行った人に撮ってきてもらったものです。私は車の廻りから離れないようにしていました。
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結構、激しく壊れている車が沢山ありました。
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トラックだけでなく乗用車も沢山被害にあっていました。
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乗っていた女性が運転手に対して文句を言っているようでした。事故当初はもっと激しいやり取りもあったかも知れませんが、見に行ってもらったころにはあきらめた雰囲気でした。
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高級車も被害にあっていました。これはドアの窓が壊れている程度の軽い接触事故度のようでした。
最初は「この事故処理のために渋滞しているのかな」と思っていましたが実はこの事故のためだけで渋滞しているのではないことが後でわかりました。この先10kmも渋滞が続いていたことが先に進んで判りました。
こんな追突事故が沢山あったための渋滞だと思います。
事故に巻き込まれなかったのは「ラッキーの中のラッキーの中のラッキー」だったかもしれません。
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鄭州のHOTEL [河南省]

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ここではホテルの人が笑顔で特別に2階建の部屋にアップグレードしてくれました。
部屋代は普通の値段(数千円)で!
オープンの階段が豪華に感じますが!意外と不便なこともあります。上の写真が2階の寝室です。

こちらが1階です。もちろんトイレ、テレビ、シャワー(バスは上だけ)は両方にありますが着替えを取に行くのに階段を上り下りするのでチョットだけ不便でした。贅沢言うなと言われそう!
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2階建も珍しいのですが地方でもサービスが良くなっているのにのがすごい!
河南料理も満喫していたのでこの日は中国で初めてイタリアレストランで食事をしました。
味も良かったのでビールをおいしく飲めました。
地方都市では数年前以前は考えられない。
あのころは中華料理以外ではケンタッキーフライドチキン店を探すのが精一杯!
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泊まったホテルは前記事の「中国の地方都市でのイタリアン」で紹介したHotel Sofitel Zhengzhou(ソフィテル)です。中国名は索菲特鄭州国際飯店です。
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タグ:ホテル 鄭州

中国の地方都市でのイタリアン [河南省]


場所は中国河南省の鄭州です。
地方都市でも、ホテルの中でスパゲッティーなどの洋食は食べれれるし、ファーストフード店ではピザが食べれますが、本格的なイタリアン専門のレストランは、この町ではたぶんここ一軒だけです。人口は約752万人の大きな町ですが地方では中華料理以外の普及はまだまだです。したがってイタリアンレストランは簡単には見つからないのでこのときは驚きでした。
このイタリアンレストランは高級ホテルの中にありました。お客さんもほとんどが欧米人でした。
上海や北京では洋食の専門店は沢山ありますが地方に行ったとたん、ほとんどのレストランが中華料理です。今回は非常に稀のケースなのです。

このビールはたいしたものでした。こんなビールもなかなか飲めないです。何杯も飲んでしまいました。


前菜としてサラダを注文しました。


生ハムもあります。 やはり本格的です。 中国の地方都市に行った人ならこれらの写真を見ると驚きだと思います。もちろん味は前記事のパッキア(Pacchia)の足元にもおよびませんがかなりのレベルです。


さらに追加で牡蠣と烏賊のフリッターです。完全に追加追加のビールのつまみ状態でした。


最後にスパゲッティーも味わってみました。ちゃんとボンゴレビアンコ(あさりのパスタ)がありました。


イタリアンレストランがあったホテルはHotel Sofitel Zhengzhouでした。中国名は索菲特鄭州国際飯店です。Sofitel(ソフィテル)は、フランスに拠点を置く高級ホテル・チェーンで、1964年に創設され、1974年にフランスのストラスブールに最初のホテルを開業しました。1997年にアコーホテルズ・グループになり、世界各国に192のホテルを展開しているそうです。
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鄭州のある河南省の場所を紹介します。黒い点(・)が鄭州の場所です。河南省の人口は9869万人と、中国で一番人口の多い省で、人口密度は591人/km² (6位)です。世界遺産は次の4つあり、私は龍門石窟と殷墟に行きました。
  洛陽の龍門石窟
  安陽の殷墟  登封の史跡群(少林寺を含む)
  シルクロードの一部
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洛陽 龍門石窟 [河南省]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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鄭州に昼ごろ着きました。着いたのが日曜日の昼ごろで時間があったので、日帰りで洛陽(らくよう)に行ってみることにしました。泊まった Hotel Sofitel の前でタクシーを止めて交渉した結果、高速道路代、駐車料金をすべて込みで400元(7880円)で契約成立です。高いように思われがちですが110元の高速代や320kmのガソリン代(150元)等を引くと手元に残るのは130元くらいですから夜の7時まで6時間も付き合ってもらったことを考えると安いかな。この写真は一番大きい奉先寺洞の廬舎那大仏像(るしゃな・だいぶつ)です。昔は建物で覆われていたそうです。川の対岸から撮りました。
川から見て西側の石窟なので我々が着いた午後3時過ぎでは、逆光の上に石窟が影でかなり暗くなってしまいました。これは、下の写真を撮った200m離れた位置からのズーム写真で、且つ暗くなりかけた時間帯の写真なので解像度はこれが精一杯です。朝ならば日が当たり解像度のあるきれいな写真が撮影出来ると思います。ここに行くときは朝をお薦めします。

龍門石窟(りゅうもんせっくつ)は中国の中で山西省大同にある雲崗石窟(うんこうせっくつ)と並び称される石窟で、河南省洛陽市の南方13キロにある伊河の両岸にある石窟寺院で「龍門石窟」の名で世界遺産(文化遺産)に登録されていjます。龍門石窟、雲崗石窟に敦煌石窟を加えたのが中国三大石窟で、いずれも世界遺産となっています。
洛陽は紀元前770年に周の都が置かれて以来、北魏、隋、唐など9王朝の都が置かれたそうです。そして龍門石窟が造られ始めたのは西暦494年と言われており、絶頂期の石窟が675年に完成した後も作られ続けたそうです。ここは1500年前の古代先人が築いた素晴らしい仏教芸術の場所でした。
下の写真は奉先寺洞の廬舎那大仏を中心に川の対岸から撮ったものです。川の名前は伊川(伊河)で、その両岸に石窟があります。写真を撮っている側に東山石窟があります。迫力がある写真を沢山掲載しているのが西山石窟です。
この写真は是非クリックしてほしいですね。大部分が写っています。
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廬舎那大仏像を近くから撮った写真です。龍門石窟はやはり世界遺産の雲崗石窟(460年-494年)より後に作られました。龍門石窟の特徴は、その硬さ、すなわち雲岡石窟の粗い砂岩質と比較して、緻密な橄欖岩質であることから北魏においては雲岡のような巨大な石窟を開削することが技術的にできなかったそうです。
絶頂期の上元2年(675年)に完成した石窟がこの奉先寺洞で、龍門最大の石窟です。
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奉先寺洞の本尊が、この廬舎那大仏です。高さ17.14mで、ふくよかな顔つきで、眉と目が細く、口の端がそり上り、すずしげな微笑をして、あたたかく、やさしく、叡智を秘めた表情です。かつては全身に金箔が貼られていて、燦然と光り輝いてたと言われています。
その顔は当時既に実権を掌握していた中国史上唯一の女帝となった武則天の容貌を写し取ったものと言う伝説があリましたが、文献に書かれている寄進などの時期と合わないため今では否定されています。
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廬舎那大仏像前の広場の風景です。岩山の山腹に幅33.5m、奥行38.7m、高さ40mという空間を切り開き、高さ17.14mの盧舎那仏を中心として、三方の壁に、迦葉・阿難の二大弟子、二菩薩、二天王、二力士の合わせて9尊の大像を彫り出しています。この大きな空間が当時は建物に覆われていました。


近くからの写真です。奈良の東大寺の大仏は遣唐使達がこの仏像を模写して造営されたと言われています。東大寺盧舎那仏像が完成したのは、奉先寺の大仏完成(675年)から77年後の752年ことでした。仁王像らしいものもあります。
廬舎那大仏の両側に謹厳荘厳な迦葉、温順敬虔な阿難、端正矜持の菩薩、蹙眉怒目の天王、威武剛健な力士などの弟子わ配しいずれも円熟した彫りで、唐代彫刻の代表作です。


龍門石窟は494年から唐代にかけ約400年にわたって造営された仏教遺跡で、石窟群は古い順に古陽洞 賓陽洞 蓮華洞 薬方洞 敬善寺洞 恵簡洞 万仏洞 奉先寺洞 浄土洞 看経寺洞があります。石窟や石がんは2100以上あり、大小約10万体の仏像が安置されていました。奉先寺洞の廬舎那大仏も魅力的ですが、沢山の石窟、石がん、仏像があるのも龍門石窟の魅力です。そのうち約3割が北魏、約7割が唐時代に造営されたものだそうです。下記の写真は薬方洞の一部部分です。
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これが全体のパノラマです。この右側(北側)にも少しあります。3枚の写真をつないでみました。クリックして拡大すると、つなぎ目は判ってしまいます。
パノラマ写真の中の① ② ③あたりの写真を下に掲載しています。
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小さな石窟が無数に集まっています。この写真はパノラマ写真のあたりので蓮華洞および万仏洞の近くです。


ここにはパノラマ写真のあたりので仏像が残っていますが、なくなってしまったものも多いです。それは文化大革命時の仏教否定によって破壊されたものですが、文化財を大切にする気持ちを持っている人によってまもられた仏像のおかげで廬舎那大仏像やこの仏像のように今も見ることが出来るのです。


そしてここがのあたりで龍門石窟のもっとも南に位置するところです。ここにも仏像がいくつか見れます。
すごい数の石窟群であることが感じてもらえたでしょうか?


これがパノラマ写真に写っていない北側にあった石窟群です。下の地図のです。中心にある大きな三つ石窟が賓陽洞で、中に仏像がありました。この石窟は龍門石窟の中でも最初期の古陽洞の次に作られた賓陽洞です。三つ石窟は左から賓陽南洞、賓陽中洞、賓陽北洞です。景明2年(500年)に、宣武帝が勅願し、写真のものよりも、もっと巨大な三窟を造営しようとししましたが果たせずに規模を縮小して24年を費やし、延べ80万2366人を動員して、賓陽中洞が完成したそうです。その後、唐代に賓陽南洞と賓陽北洞が完成しました。
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賓陽洞を近くから見た写真です。二つの入口は賓陽中洞と賓陽北洞です。
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上の北側の三つの石窟の中にあった仏像の2体を紹介いたします。壁や天井には装飾された痕跡が残されており造られた当時の極彩色の絵を、うかがわせてくれました。三つ石窟は賓陽南洞、賓陽中洞、賓陽北洞で左の写真が賓陽中洞のお釈迦さまで、右の写真が賓陽南洞の阿弥陀さまです。賓陽北洞も阿弥陀さまだそうです。いずれも北魏の時代に彫られたとのことです。
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クリックすると拡大2枚上の写真の大きな三つの石窟の右側のお寺が潜渓寺です。場所は下の地図のです。唐代の開窄で洞内を泉水が流れているので潜渓寺と言うそうです。写真の主佛の阿彌陀佛は須弥壇に端坐し、バランスが良い豊満な顔つきで、英知と慈悲に溢れる表情をしていると書かれていました。写真をクリックすると中の石仏を拡大します。
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この地図の左上の部分が廬舎那大仏像で右の方が北側にあった大きな三つ石窟があった石窟群です。


対岸にも石窟とお寺があります。お寺は香山寺です。
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対岸の石窟です。上の写真のお寺の下の石窟群を近くから撮りました。
奥にも石窟がありますが遅くなり時間がなかったので東山石窟の方には入りませんでした。


航空写真も紹介しておきます。
下の写真で伊川(伊河)に架かる2つの橋の間の両岸に沢山の石窟があります。
右の写真は龍門石窟で最大の大仏である廬舎那大仏像がある奉先寺洞の広場です。この広場の部分に建物が建てられていたと思われます。この大きさから見て東大寺の大仏殿のような雰囲気があったのではないでしょうか。

よく映画に出てくる少林寺も近い場所にあります。黄河も近くを流れています。古都の開封も近いです。ここは河南省です。

洞穴住宅 竹林鎮 [河南省]


泊まっていた鄭州のホテルから洛陽の世界遺産である龍門石窟を見に行くためにタクシーをチャーターして高速道路を往復いたしました。その高速道路沿いに洞穴が沢山あることに気が付きました。120km/hで走る車の中からなので写真ではなかなか撮れませんでしたがこのあたり一帯の崖は穴だらでした。
石窟ではなく土の洞穴でした。運転手さんに聞くと昔からの住居だそうです。

このあたり一帯は硬い粘土層で掘りやすく崩れないそうです。近くに少林寺がある登封の近くの村で看板には竹林鎮と書かれていました。


今でも人が住んでいる立派な扉が付いた洞穴の写真は残念ながらここでは撮れませんでした。
山西省でも見つけました。⇒ポチッ
いろんな場所に洞穴住宅があり、世界にはいろんなタイプの住宅があることを知りました。


写真の撮影場所を紹介します。
   写真撮影場所 洞穴住宅
   少林寺
   龍門石窟 世界遺産
   高速道路 鄭州~洛陽

平原の太陽 [河南省]

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朝の7時33分です。日が昇ってすぐですがまだ薄暗い状態でした。中国の朝は霧が濃いことが多いのでなかなかこのような景色には出会えませんが、この日は霧が適度に薄かったので幻想的な景色に出会えました。

木のシルエットがきれいです。
河南省の省都である鄭州から、北宋時代の首都であった開封(宋の名:東京)にタクシーで向かう時に出会いました。すぐに車を停めてもらい写真を撮りました。
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地方都市のクリスマスディナーショーの豪華賞品 [河南省]


今日はクリスマスです。少し古いけれどクリスマスのころの話題を掲載します。
泊まったホテルはクリスマスムードです。ディナーショーなど、いろんな催しが計画されていました。地方の省(河南省)の省都である鄭州です。地方の省と言っても人口は1億人で中国で一番人口の多い省だそうです。

ディナーショーが行われるホテルのロビーです。
ホテルの名前はHotel Sofitel Zhengzhouです。中国名は索菲特鄭州国際飯店です。


これが参加者へのくじで当たる豪華ブレゼントです。
賞品を裏側から見ました。プレゼントを紹介します。いずれもブランド品です。
  一等  現金4888元と西安旅行券
  二等  液晶テレビ
  三等  パソコン
  四等  電動自転車
  五等  冷蔵庫
  六等  自動食器洗い機
  七等  ミキサー
  八等  コーヒーメーカー
  九等  電子オーブン
  十等  電磁調理器  
  11等  加湿器
  12等  系列ホテルの宿泊券
 はずれ 100元の食事券


四等の電動自転車です。巷ではこれが流行っているのです。


気になる参加費用は一番遠い席で788元 近い席が1888元です。1888元(約23,000円)は物価感覚で行くと我々の価値で言えば15万円でしょうか。
丸テーブルが47で合計528席です。

これも賞品? まさか! これは結婚式で使用される車でしょう。 親からの結婚プレゼントかも知れません。

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