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竹の子ハンバーグ [筍]


写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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前日の夕食はタケノコづくしでした。残ったタケノコがあったので家内が知り合いに方に教えてもらって竹の子ハンバーグに挑戦いたしました。ハンバーグの上に竹の子が乗っているだけではありません。

用意した竹の子です。合挽ミンチ300gに対して入れた竹の子です。この竹の子をみじん切りにしていつものハンバークに入れるのです。ハンバーグの上に乗せた竹の子はこれとは別です。使った竹の子は、もちろん近所の人気店で買った来て朝採り(朝掘り)を買ってきてすぐに茹でたものです。


竹の子のみじん切りと玉ねぎは半個分のみじん切りを入れました。肉は、こだわって国産牛と国産豚の合挽ミンチです。


竹の子のみじん切りの部分を拡大いたしました。味付けに胡椒と塩を入れています。
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玉子は1個にパン粉も入れて材料の準備は完了です。後は全体を混ぜて形を整えて焼くだけです。もう少し正確な分量を書きたいところですが、全てが感だそうなので、分量に関しては他のハンバーグのレシピを参考にしてください。


竹の子ハンバーグの完成です。ハンバークと一緒に焼いた竹の子を載せました。フライパンで醤油味をつけているのでソースなしでハンバーグも竹の子もそのまま食べれました。


これが竹の子ハンバーグです。クリックすると拡大します。
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竹の子が入っているところを見てもらいたくてハンバーグの切り口の写真も掲載いたしました。タケノコの独特の食感が加わってハンバーグがさらに美味しく感じられました。食感がわかってもらえるでしょうか。


名前はわからないのですが、つけあわせの若い紫色の玉ねぎです。紫エシャロットよりは大きいようです。ドレッシングでサラダのように食べました。


この日は大きな蒸し玉ねぎもついていました。ポン酢をかけていただきましたが熱々なのがよかったです。
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和風味付けだけでなく洋風ソースも美味しかったです。
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これでタケノコの入り具合がわかると思います。クリックすると拡大します。
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1800年代の地下鉄の駅舎 [オーストリア]

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高速道路でドイツのミュンヘンからオーストリアのウィーンに車で入って最初に目についたのが、今回報告の地下鉄の駅舎です。ウィーンの町に入って古めかしい駅舎らしいものがいくつもありました。これはその一つを車の中から撮ったものです。拡大してよく見ると「OBER ST. VEIT」と言う文字が読み取れました。ネットで調べてみると‎Otto Wagner(オットー・ヴァーグナー)の1897-1898年作だそうです。地下鉄U4の駅舎の一つOBER ST. VEIT駅です。つまり1898年に歴史的な開業となったシュタットバーン(都市鉄道)の駅である上に、開業当初のままの駅舎なのです。シュタットバーンは高架と掘割走る都市鉄道のことです。その1898年開業したシュタットバーンは1976年に一部を地下鉄化してU4線となりましたが駅舎に関しては開業当初のままなのです。つまり115年前の駅舎なのです。

これは別の駅で翌日の朝の散歩の時に撮りました。地下鉄と言っても、この場所は写真のように駅の上はオープンの状態でした。駅名はわかりませんが、こちらの駅も古いものであることはわかりました。
地図で調べてみるとKettenbrückengasse駅(ケッテンブリュッセンガッセ駅)で設計者は同じ‎Otto Wagner(オットー・ヴァーグナー)で、竣工は1899年と考えられています。
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そのケッテンブリュッセンガッセ駅を拡大いたしました。100年以上経つ駅を大切に使い続けるのがヨーロッパなのです。右の写真はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikimedia)から拝借したケッテンブリュッセンガッセ駅舎の入口側の写真です。


クリックすると拡大Googleの航空写真です。右よりの緑の屋根の四角い建物がKettenbrückengasse駅舎です。細長いホームの上の緑の屋根も印象的です。右の写真はWikimediaに掲載されていた1977年のホームの写真です。このころは屋根の色は緑色ではなかったようです。航空写真上のマイナスマイナスアイコンを数回クリックするとウィーンの町の中の、この駅の位置が特定できると思います。

道路の左側に沿って地下鉄が走っていましたが、それを跨ぐ別の路線の鉄橋も趣がありました。宣伝と思われるHENKELL TROCKENの文字も古そうです。
地下鉄が世界で最初に開業したのはロンドン(パディントン駅~ファリンドン駅)の1863年1月10日です。その他の国での地下鉄開業はトルコ1875年(2番目)、ハンガリー1875年(3番目)、フランス1900年、ドイツ1902年、アメリカ1904年、アルゼンチン1913年、スペイン1919年、ロシア1935年、カナダ1954年、メキシコ1969年、中国1969年、北朝鮮1973年、韓国1974年、ブラジル1974年、オーストリア1976年、ベルギー1976年、オランダ1977年、インド1984年、シンガポール1987年、エジプト1987年、台湾1996年、タイ2004年、ドミニカ2009年、アルジェリア2011年、などです。
ちなみに日本の地下鉄は東京(上野~浅草)が1927年12月30日に開業し、大阪(梅田~心斎橋)が1933年5月30日に開業しました。

韓国線の機内食は空弁 [機内 CY]

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今回の韓国は4月25日に成田から釜山に入り浦項からソウルに移動したあとソウルから成田に4月27日に帰国しました。帰国便は成田着が20時の夕刻便で上の写真は、その帰国便からの日が沈みかけた写真です。

機内食は近距離になるほど評判はよくありませんでした。そのことも影響あるかもしれませんが、最近の韓国便は機内食が弁当形式になりました。料理は温かくはないけれども料理は昔の韓国線の機内食より美味しくなったと思います。温かい味噌汁がついているので冷たさは気になりませんでした。


行楽弁当の現在のテーマは日本"旨"漬物巡りだそうです。
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こちらは2月20日の韓国からの帰国便での空弁です。


この松花堂弁当も結構美味しかったです。ただし御飯物が中心だったのでビールのツマミには、むいていないかも。
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比較のためにいくつかの韓国線の機内食を紹介いたします。
これは2月18日に韓国に行く時のアシアナ航空のCクラスの機内食です。Cクラスと比較すると見劣りしますが空弁の味はしっかりしています。
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こちらは2月9日に韓国に行くUA891のCクラスの機内食です。


こちらは2月11日のANAの韓国からの帰国便の機内食です。いろいろ比べて空弁は味とのバランスにおいてコストパフォーマンスはいいですね。中国線や東南アジア線にも広げるようです。

小竹の辻切り [風習]


千葉県の佐倉市井野地区と八千代市下高野地区と八千代市下高野地区では藁の大蛇を飾る辻切りという昔からの風習があることを紹介しました。辻切りは村の外部からの災いや疫病を防ぐ目的で村の境に藁の大蛇などを飾る昔からの風習です。
私の家の周りには昔からの地区が下記のようにいくつもあり辻切りが行われている地区があります。そこで辻切りの行事の有無も記載いたしました。青菅や先崎には辻切りの風習が残っていないと「無し」としていますが散策の範囲でのことです。
下のポチッをクリックしてもらうと今までに掲載した記事を見ることが出来ます。
     地区     辻切りの有無
  八千代市 上高野   あり  → ポチッ
  八千代市 下高野   あり  → ポチッ ポチッ
  八千代市 村上    未確認 
  佐倉市  井野    あり  → ポチッ ポチッ
  佐倉市  青菅    無し
  佐倉市  先崎    無し
  佐倉市  小竹    無し→あり(今回発見で修正)
クリックするとGoogle地図を表示  佐倉市  上座   未確認
  佐倉市  上志津  未確認
  佐倉市  下志津  未確認
  佐倉市  中志津  未確認
  佐倉市  西志津  未確認
最近、井野の隣の小竹地区にも辻切りの風習があることを発見いたしました。発見したしたきっかけは小竹地区の個人宅の門の部分に藁の蛇が飾ってあったことでした。形は今まで紹介した直線的な蛇ではなく尻尾の方は丸い輪になっていました。
個人宅に小辻があったことから小竹地区として辻切りがある可能性があることを感じました。
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そこで小竹地区の結界に相当する境界近くの辻を探してみると藁が巻かれた石柱がありました。飾られている位置や、藁の大蛇ではないけれども、他の地域の辻切りと同じお札も飾られていることから、この藁の飾りも辻切りと思われました。小竹の辻切りは注連縄(しめなわ)型だったのです。この辻切りを5ケ所で見つけました。その①~⑤を紹介いたします。5つとも全てが三叉路にありました。
道標に設置
石柱の上の部分には「御大典 記念」と掘られていました。さらに昭和三年十一月と書かれていました。調べてみると昭和天皇の即位を記念して建立された道標です。
正面には「正面 先崎ヲ経テ青菅方面」と書かれており右側には「上座ヲ経テ四街道方面」、左側には「臼井ヲ経テ成田方面」と書かれていました。
付けられている神社のお札は塞神(さいのかみ;境の神)で「八衢比古神(やちまたひこのかみ)・八衢比女神(やちまたひめのかみ)・久那戸神(くなどのかみ)」の三柱の神が書かれています。この「境の神」のお札が付いられていることからも、この注連縄が辻切りであると言えると思います。
写真をクリックすると道標の文字やお札の塞神、八衢比古神、八衢比女神、久那戸神 、三柱守護の文字が読み取れると思います。
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道標の左側です。立っている場所の雰囲気がわかってもらえると思います。是非ともクリックしてみてください。「臼井ヲ経テ成田方面」と書かれていることが判ると思います。「昭和三年十一月 小竹修斌會」という文字も確認できます。2007年12月16日に掲載された「佐倉市道標一覧表」に小竹修斌会の記載がありました。一部だけですが、この地域の道標などの石碑の地図をまとめられている方もおられました。
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道標に設置
正面には「御大典 記念」と「正面 臼井佐倉方面」と書かれており、右には「青菅 保品方面」、左には「井野 上高野方面」と「昭和三年十一月 小竹修斌會」が書かれていました。 
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右の面の「井野 上高野方面」「昭和三年十一月 小竹修斌會」の写真と横の石碑の写真も紹介します。こちらにも小竹修斌會の文字がありました。
横の石碑も道標で明治三十一年製でした。表で読める文字は「右 本稲荷平戸・・・」、「東 ・・・臼井 佐倉・・・」、「左 井野 萓田 高本」です。クリックするともう少し読めるかもしれません。 
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石碑に設置
この石柱には秩父三十四番と書かれており秩父三十四ヶ所参りを記念した石柱のようですが、右側には「東 臼井 佐倉 道」と書かれており左側には「西 井野 米本 萓田 道」 裏側には「北 當 小竹 區」と書かれており、やはり道しるべでした。こちらは明治三十三年一月吉日に建てられたものでした。この石碑は高橋弥右エ門さんによって建てられたようで名前が刻まれていました。
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ここには庚申塔などの石碑が沢山ありました。こちらが最後に見つけた辻切りでした。
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クリックすると拡大植木に設置
こちらには道標がないことから植木にかけられていました。こちらの写真は、お札が見やすいので植木の葉が伸びる前の3月3日に撮った写真を掲載いたしました。この時に一部の辻切りを発見しました。5つの辻切りを発見したのは今週のことでした。右の写真が今の状態です。
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畑のコーナーの植木に辻切りが飾ってあるのが見えます。この場所には小竹城がありました。奥の林のあたりに小竹城がありました。畑のあたりは外郭でした。小竹城は、臼井城の支城でもありました。小竹は、かつて交通の要衝であり、臼井しろへの西からの攻撃に対して守りを固める意味があったそうです。ここにあった城は小竹五郎高胤によって1390年頃に築城されたと伝えられています。
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道標に設置
この道標はとつゅうで折れて補修されていますが短くなってしまっているので正面は、かろうじて「御大典 記念」が読み取れますが、その他の文字は不明です。左側には「井野 上高野 方面」で、右側は「青菅 先崎 方面」が読み取れます。
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こちらにも庚申塔などの石碑が沢山ありました。写真の中の右下の藁が巻かけている石碑(道標)が辻切りです。辻切りは江戸時代から続いている風習です。道標は昭和三年に建てられたものなので、それ以前の辻切りがどのように取り付けられていたか気になるところです。近隣の地区と同じように昔は大蛇の藁だったかもしれません。
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千葉県の辻切りです。大蛇以外にいろんな形式があることが判りました。赤いしるしが蛇型の辻切りの風習が残っているところです。

参考に千葉県内の蛇型以外の辻切りを、ネットから拝借した写真で紹介いたします。
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地区の境は注連縄(しめなわ)の辻切りですが個人宅では蛇の小辻が沢山見受けられました。村の辻切りで防ぎきれなかった災いを個々の家で防ぐのが小辻です。航空写真の中にマークを付けました。個人宅の小辻も紹介します。
緑色のマーク( ①~⑤ )が小竹地区の辻切りです。
空色のマーク( Ⓐ~Ⓓ )が小竹地区内の個人宅の小辻です。
散策した範囲で見つけることが出来た小辻は下記の4ヶ所で全て蛇型でした。
航空写真をクリックすると、もっと広範囲を表示します。印旛沼や新興住宅地との位置関係がよくわかると思います。


個人宅の小辻
冒頭で紹介した民家の小辻で、蛇と注連縄を組み合わせたような、初め見る形式でした。
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個人宅の小辻
こちらも蛇タイプの小辻でした。


個人宅の小辻
こちらも蛇タイプの小辻でした。


個人宅の小辻
井野タイプの目がつけられた小辻でした。個人の家では蛇タイプの小辻を飾り、村境では注連縄タイプの辻切りなのが小竹地区の辻切りでした。


小竹地区でも鯉のぼりが飾られ始めました。Ⓒの個人宅に近い別の民家です。昔ながらの建物は鯉のぼりとよく似合います。小竹地区にはこのように古い民家が沢山あります。
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大切に見守ってくださることを期待して周辺の辻切りの位置を航空写真に記載しました。
 空色マーク 佐倉市井野   8ヶ所
 緑色マーク 佐倉市小竹   5ヶ所
 黄色マーク 八千代市上高野 5ヶ所
 赤色マーク 八千代市下高野 6ヶ所

国境のサービスエリアからの風景 [オーストリア]


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ミュンヘンからウィーンまでの450kmを車で走りました。すでに車窓からの写真を紹介しています。ドイツとオーストリアの国境に近い高速道路のサービスエリアに休憩のため停車しました。そのサービスエリアからの写真もを紹介いたします。南東方向のベルンハウプテン(Bemhaupten)と言う村の景色です。

上の写真の左側の教会を中心に拡大しました。移動中は車の振動などでクリアーな写真は難しいため貴重な停車中の写真です。
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サービスエリアから南西の方向には雪の残った高い山がありました。
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上の写真で遠くに写っている山は形から有名な山だと思うので拡大して掲載いたします。後で名前を調べます。
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サービスエリアのレストランはきれいな景色が見れる展望レストランでした。その中でも景色の最もきれいなテーブルで若い女の子達が景色を楽しんでいました。
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この車でミュンヘンからウィーンまで走りました。


サービスエリアから出発します。このあと15分ほど走ると、1965年の映画サウンド・オブ・ミュージックの舞台となったザルツブルク(Salzburg)です。ザルツブルクは、モーツァルトが1756年に誕生してから25歳まで住んだことでも有名なきれいな町です。


ネットで場所を探し当てました。その航空写真を掲載いたします。ベルンハウプテン(Bemhaupten)と言う村の近くのSAでした。
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オーバーサイズ [オーストリア]

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日本では規制が厳しくなって大きなサイズの荷物を運ぶのが難しくなってきましたが、ヨーロッパは高速道路の幅が広いので大きなサイズの荷物を高速道路で運んでいるところをよく見ました。ミュンヘンとウィーンの間の高速道路を走ったときに撮りました。
写真で確認すると貨物の幅はちょうど荷台の2倍でした。トラックの荷台の幅が日本並みとすると貨物は5m幅なので、5m以上の幅の貨物だと思われます。

前にに1台、後ろに2台の車が付いて運んでいました。クリックすると上を走っている先導車がわかると思います。貨物の左端が追越し車線に出っ張らないような位置を走行しているのが印象的でした。
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こちらは重量物のようです。やはり車が付いて運んでいました。このように先導車が付いて運んでいるところを4時間程度のドライブの間に見たということは、大型のものを高速道路で頻繁に運んでいるのだと感じました。
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オーストリアにも沢山の風力発電 [オーストリア]



ヨーロッパは風車発電が盛んです。特にドイツとスペインは多いです。オーストリアにもありました。どの程度設置しているか調べてみないと判りませんが、積極的であると書かれていました。高速道路を走っている時にウィーン近くに沢山見かけました。丘の上で風が強くて勢いよく回っていました。上の写真はその時の写真です。

動画でも撮ったのでYouTubeに登録いたしました。車で走りながらの映像です。


YouTubeでが見れないLAN環境や国の方のためにSo-netにも登録いたしました。

動画に写っていた風車の写真です。小さく見えますが、かなり大型のもののようです。遠近感が判らないけれども左の写真のタワーの根元のトラックや右の写真のタワーの根元の木の高さと比べもかなりの大きさの風車のようです。出力7580kWで羽の直径が126mクラスのもの、あるいは羽の直径が112mクラスの可能性が高そうです。下の写真をクリックすると2枚の写真を切り取った、元の写真(3基が写っている)
を表示します。
クリックすると3基表示クリックすると3基表示

ネット(You Tube)上で126mの直径の羽の風車の動画があったので掲載しておきます。今回、見た風車と類似しています。少なくとも同じドイツのメーカーの風力発電のようです。

ヨーロッパは昼間でもライトをつけて走ります。 [オーストリア]



ヨーロッパでは常時ライトを点灯することを義務付けている国がいくつかあります。どの国が義務付けているのか調べきれていませんが、義務づけられていない国でも、ほとんどの車が昼間でも点灯して走っていました。

これらの写真はミュンヘンからウィーンに高速道路で移動したときのものです。


点灯していない車も時々見かけますが、義務付けている国ではエンジンをかけると日本のバイクのように連動してランプが点灯するために消灯できない車も沢山あると聞きました。本題とは関係ありませんが風力発電用風車が写っています。


もちろん街中でも点灯した車がほとんどでした。ここはウィーンの街中です。


馬と一緒に旅行 [オーストリア]


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ミュンヘンからウィーンまでの高速道路自転車を乗せた車を沢山見たことを報告させていただきましたが、馬を乗せた車も見かけました。写真をクリックすると拡大するのでわかりやすいと思います。乗用車で牽引しているので個人で乗るための馬だと思います。気がついただけで、ウィーン着くまでに同じ方向だけで2台見かけました。反対車線の車は、すれ違って後ろを見ないとわからないので、実際にはかなりの人が馬と一緒に旅行をしていると感じられました。自転車だけなく馬も一緒に旅をする人が沢山いることには驚かされました。
後ろの扉に、さりげなく馬のシルエットが描かれているのが洒落ています。

防音壁は木製 [オーストリア]


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ドイツのミュンヘンからオーストリアのウィーンに高速道路を使って行きました。オーストリアに入ってからは高速道路の両側に防音壁が取りつけられていました。驚いたことにほとんどの防音壁が木製でした。いろんな形状の防音壁が使われていました。上の防音壁は竹かごのように木を編んだ防音壁と別のデザインの防音壁の組み合わせです。上の写真はクリックすると編んだ木が実感できると思います。

こちらは編んだ防音壁で統一されていました。沢山の木も高速道路の両脇に植えられていました。おかげで景色を撮れるチャンスが圧倒的に減ってしまったのは残念でした。


これも、また別のタイプの木の防音壁ですが吸音効果を高めるために、でこぼこになっているのでしょうね。


これだけ、木の防音壁が並ぶと壮観です。ここでは中央分離帯部分にも防音壁が設置されていました。少しでも音を吸収する配慮ですね。
IMG_3566-50.jpg

やっぱりドイツはビールとソーセージとホワイトアスパラ [ドイツ]

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小さな村の泊まったホテルで夕食にすることにしました。ホテルとしても村一番ですがレストランとしても村一番なのです。ドイツに来たらやっぱりこれですね。これでも結構食べ応えがありました。3種類のソーセージです。一人前を二つに分けてもらいました。つまりこの倍の量が一人前でした。ミュンヘンあたりの名物のホワイトソーセージも入っていました。一番手前の太いのがホワイトソーセージです。

ソーセージの部分を拡大いたしました。クリックするとさらに拡大します。ホワイトソーセージはこちらではヴァイスヴルスト(Weißwurst)です。このヴァイスヴルストは、ドイツ・バイエルン州の伝統的なソーセージで、よく挽いた仔牛肉、新鮮な豚肉のベーコンから作るそうです。通常は風味づけにパセリ、レモン、ナツメグ、タマネギ、ショウガ、カルダモンがさまざまなバリエーションで使用されます。それらを混ぜ合わせて新鮮で清潔な豚のケーシングに詰め、それぞれ長さ10~12センチ、太さ約2センチのソーセージに形づくられるそうです。痛みやすく短時間に味が落ちるので作って6時間以内に食べるそうです。つまり本場でしか食べれないソーセージでした。
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ソーセージを頼むとソースが出たきました。お好みでかけられるのがよかったです。この甘辛いソースは、まさにソーセージのためにあるソースでした。


もう一つソーセージにはこれですね。キャベツの酢漬けのザワークラウト(Sauerkraut)です。ザウアークラウトともザワークラフトとも呼ばれています。この酸味は乳酸発酵によるもので、酢は使われていないそうです。こちらも好みで自分のお皿に乗せられるのがうれしいです。作り方をネットで調べると下記の枠の中の通りでした。
産地や各家庭において作り方はさまざまであるが、基本的にはキャベツを繊切りにし、塩水、香辛料とともにかめに入れて塩漬けにする。香辛料はジュニパー、ディルシード、キャラウェイシードなどがよく使われる。また、塩とともに白ワインを加えて漬け込まれることも多い。
キャベツは空気中に含まれる乳酸菌などによって自然に酸っぱくなるため、酢などの酸味料は一切加える必要はない。


ホテルの1階がレストランになっていました。
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レストランの中だけでなくホテルで働いている方は、皆さん民族衣装を着られていました。ホテルのチェックインに対応してくれる方も民族衣装でした。ちょっとうれしくなりました。朝食の時だけは普通の服の方がおられましたが夕食の時間帯はレストラン以外も含めて全員が民族衣装でした。


ドイツと言えば、やっぱりビールです。クリヤーなビールです。コースターにもジョッキにもホテルの名前が入っていました。


無ろ過のビールも美味しかったです。左の黒ビールも美味しかったです。


驚いたのが、このビールです。私の横でドイツの方が美味しそうに、このビールを飲まれていました。同じビールを、と言うと怪訝そうな顔をされてしまいました。実はノンアルコールのビールだったのです。その時は、このビールを飲むをあきらめて無ろ過のビール追加して飲みました。でも味が気になったので、このノンアルコール生ビールを頼みました。驚いたことに美味しいのです。少し軽い感じはありましたが、まったくアルコールが入ったビールに負けない味でした。


もちろんワインも頼みました。銘柄はBretz Regent Troekenでした。ワインのコンテストであるRegent PreisでGoldをもらったワインのようでした。

この料理の名前は判りませんでしたが、隣のテーブルで美味しそうに食べていたので頼みました。クリックすると拡大これも2人でシェアーいたしました。出来上がったものを分けたのではなく最初から半人分を2皿で作ってくれたのでした。本当ならば、この器に敷き詰められた状態で出て来ます。気になった、この料理の中身はホワイトアスパラガスでした。右の写真でホワイトアスパラが覗いているのがわかると思います。クリックしてみてください。隣のテーブルでは全員が、この料理を食べていたのですが、それだけのことはありました。すごく美味しい料理でした。ホワイトアスパラを包んだクレープ料理の一種だと思いました。英語のメニューには載っていませんでした。
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残念 梅酒大会の前日でした。 [水戸]



ゴルフと水戸散策のために2013年3月7日~8日と水戸に行きました。3月7日に偕楽園の梅を見に行ったのですが、偕楽園の隣にある常磐神社の境内で水戸の梅まつり梅酒大会2013梅酒の全国大会である「水戸の梅まつり梅酒大会2013」の準備をされていました。2013年の梅酒大会は3月8日~10日でした。なんと梅酒大会の前日だったのです。

常磐神社(ときわじんじゃ)は徳川光圀(第二代藩主)と徳川斉昭(第九代藩主)を祀るために明治6年(1873年)に創建された神社です。徳川斉昭は偕楽園や弘道館を作った名藩主です。その常磐神社の境内に建てられた梅酒大会のテントの外側には出品される梅酒の写真付きの説明が沢山張られていました。これを見て事前に飲む梅酒を決めるのも良い方法だと思います。
今回の「水戸の梅まつり梅酒大会」は東日本初の梅酒大会だそうです。これから毎年続けは第1回ということになり期待しています。ちなみに梅酒大会としては「大阪の天満天神梅酒大会」があり、そこは今年が第7回だそうです。 
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すごい数の梅酒でした。自由に見学させていただきました。
大会コンセプトは「一般参加の方には梅酒をお好きなだけ試飲していただき投票をして頂きます。」とのことなので入場料600円(前売500円)で、この梅酒が飲み放題なのです。
この日は車ではないし、この日は近くで泊まるので梅酒を飲むには絶好の日でしたが、残念ながら大会の前日だったわけです。飲めないとなると、ますます飲みたくなります。
ネットで調べてみると全国93社から157種類の梅酒が出品されました。この時点で3本づつ並んでいるので471本並んでいることになります。壮観でした。当然ですが3日間で、この数倍の梅酒が飲まれたと想像できます。
この写真は是非ともクリックしてみてください。
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一般投票で上位10銘柄が選ばれた後に、トップクラスのソムリエの方など7名の審査員によってブラインド・ティスティングが行われて10銘柄の中から1~3位が決定する方式です。ネットで確認した大会の結果は下記の通りです。この中で一般賞と書いているのは一般投票一位の梅酒です。特別賞の内容を知りたい方はホームページで確認願います。赤色の梅酒は一般投票で選ばれた10銘柄です。値段は720mmに換算した価格です。どろっと梅酒は価格が書かれていませんでした。
  第一位                第二位       第三位     一般トップ
一位二位三位得票一位
 第一位 茨城県  百年梅酒プレミアム      3150円 明利酒類(株)
 第二位 和歌山県 紀州のゆず梅酒        1050円 中野BC(株)
 第三位 奈良県  どろっと梅酒        不明   (株)北岡本店
 一般賞 福島県  うめとろ          2000円 奥の松酒造(株)
 特別賞 茨城県  木内梅酒             木内酒造合資会社
 特別賞 大分県  樽仕込 高級梅酒 ゆめひびき    (株)おおやま夢工房
 特別賞 北海道  国士無双梅酒             髙砂酒造(株)
 特別賞 福岡県  杉能舎ヨーグルト梅酒         浜地酒造(株)
 特別賞 福岡県  あまおう梅酒 あまおうはじめました。  (株)篠崎
 特別賞 兵庫県  白鶴 ぷるぷる梅酒          白鶴酒造(株)
 特別賞 茨城県  梅酒くまんばち とろ梅         明利酒類(株)
 特別賞 和歌山県 紀州の梅酒 古城の煌めき        中田食品(株)
ちなみに今年の「大阪の天満天神梅酒大会」の一般投票で選ばれた10銘柄は、水戸の10銘柄とは全く違う結果でした。実力は拮抗しており梅酒が並んでいる順番やその他の条件が影響しているのかもしれません。
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本番の梅酒大会を見れなかったのでネットから拝借した写真を紹介します。すごい行列で約3300人が来場されて大盛況だったそうです。600円 or 500円で好きなだけ梅酒が飲めるのですから当然と言えば当然ですね。さらに右上の写真の水戸の梅大使の方々も沢山来られて華やかだったと思います。2013年水戸の梅大使の方々の名前を紹介いたします。下の写真群をクリックすると水戸の梅大使の方々が登場されると思います。
 長谷川和奏さん 田辺真理さん  小峰華子さん  岩間莉沙さん  倉持恵理さん
 沢畑順子さん  箕輪友美さん  高岡亜弥乃さん 藤澤理恵さん  山本千尋さん
水戸の梅大使

不思議な石碑 [ドイツ]


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ドイツの小さな村Rohrdorf を散策しているときに、珍しい石碑を見つけました。道の右側の木の側に立っていました。石碑という表現は正しくない気もしますが呼び方が判らないので、とりあえず石碑をつかわさせていただきます。

何のためのための石碑かは判りませんが石碑には絵が描かれていました。不思議な雰囲気の石碑でした。
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これが、その絵です。聖母マリアかなと思ったけれど、胸に何本も剣が突き立てられているところを見ると、聖母マリアではなさそうです。不思議な石碑でした。ドイツ語が判る方は、是非とも写真をクリックしてみてください。文字が読めるかもしれません。
クリックすると拡大

nyankomeさんのご指摘で絵が判りました。 絵は「処刑されたキリストを抱く聖母マリア」でした。さっそくイタリアに行ったときの写真を探してみました。バチカン市国のサンピエトロ寺院にあったミケランジェロ作のピエタ像(処刑されたキリストを抱く聖母マリア像)を掲載させてもらいました。確かに構図はそっくりでした。ただし聖母マリアの胸に7本の剣が胸に刺さっている理由はまだわかりません。



2013年4月25日 追伸 (こちらの写真はネットから拝借させていただきました。)
サンティッシマ・アンヌンツィアータ教会の胸に7本の剣が刺さった聖母マリアの像聖母マリアの胸に7本の剣が刺さっていることを調べてみるとイタリア・フィレンツェのサンティッシマ・アンヌンツィアータ教会の中にも右の写真の胸に7本の剣が刺さった聖母マリアの像がありました。7つの剣は聖母マリアの7つの悲しみを象徴したものだそうです。心臓に7本の剣が刺さっていたり7つ傷がある絵も描かれているそうです。
7つの悲しみは下記の通りです。
クリックすると拡大 1. メオンの預言
2. エジプトへの逃避
3. 博士たちとの議論
4. 十字架を担うキリスト
5. 磔刑
6. 十字架降下
7. 昇天

小さな村Rohrdorfの石碑に書かれていた聖母マリアの絵を拡大して、もう一度よく見ると心臓も描かれていました。7つの悲しみの6番目「十字架降下」である「イエスが息絶え、十字架から降ろされたとき」を表現した絵だったのです。


クリックすると拡大下の航空写真の空色のマークが今回の石碑があった場所です。左上の方から歩いてきて見つけました。冒頭の写真に写っている家と道路の曲り具合で、わかってもらえると思います。不思議な場所にあったことがわかってもらえると思います。航空写真の中のアイコンマイナスを数回クリックしてもらうと村の中の位置がわかってくると思います。

より大きな地図で Rohrdorfの聖母マリアの石碑 を表示

109年前に設立された小さな小学校 [風習]


写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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ワンコの散歩コースで桜の木が沢山植わっている場所があります。今年も桜が満開に咲きました。桜の満開の写真は2013年3月29日に撮りました。ここは昔、小学校だった場所なのです。

その校庭だった場所の写真です。小学校は廃校になりましたが、当時の桜は成長し、今も咲き続けています。ここは千葉県佐倉市青菅地区です。現在の住所は千葉県佐倉市青菅148-2です。
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少し足を伸ばしたワンコの散歩コースにある廃校となった小学校です。
この小学校は109年前の明治36年(1903年)に青菅分教場として設立され、昭和52年3月(1977年)に廃校になりました。36年前の廃校当時のままに残っているのです。


噂では映画の撮影に使われたこともあるそうです。この小学校は分校として出来ましたが、その本校(当時名 : 印旛郡第六番小学区公立井野町小学校 現在名:佐倉市立志津小学校)は明治6年(1873年)に設立された歴史のある学校だそうです。


以前の桜の季節の写真も紹介します。校庭には沢山の桜の木が植わっています。


この小学校の校庭に、もう一つ珍しいものが残っています。庚申塚(こうしんづか )です。
庚申塔(こうしんとう)とも言うそうです。確かに左の石碑には庚申塔と書かれており、右側の石碑には庚申塚と書かれています。庚申塚は中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のことだそうです。庚申塚の建立が広く行われるようになるのは、江戸時代初期(寛永期以降)頃からで、近世を通して多数の庚申塔が建てられたが現存するものは開発から免れたものだそうです。クリックすると拡大します。
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中心に置かれている、最も立派な庚申塔を拡大してみました。青面金剛(しょうめんこんごう)の像が鉾、弓、矢、輪宝らしいものを手に持っています。災いを調伏する青面金剛のシンボルとして、両足の下に邪鬼が踏みつけられています。さらに見ざる、聞かざる、言わざると思われる三猿(さんえん)が台座に近いところに掘られています。上辺の左右には日と月が描かれている のも庚申信仰の特徴です。
年号を確認すると263年前の寛延三年十一月(1750年)でした。


庚申塔.gif右の絵はネット から拝借しました。上の写真はこの絵の青面金剛の特徴を持っています。さらに傘があるのが特徴のようです。
この周りを見ると草に隠れて小さな庚申塔を見つけました。下の写真です。
この青面金剛は斧、輪宝、数珠を持っているようです。ただし邪鬼や三猿や上辺の左右の日と月は描かれていません。
年号は寛保四年正月(1744年)と上の庚申塔より少し古い物のようです。

この2つの庚申塔(庚申塚)以外の年号も調べるてみると文政九年(1826年)、弘化五年如月(きさらぎ)(1848年2月)、享和三年十一月(1803年)、明治三十年十二月(1897年)とほとんどが江戸時代でした。急に貴重なもののように思えてきました。ここから遠くない場所(昔風に言えば隣村)でも庚申塔を13体見つけました。


庚申塔の中にまぎれて一つだけ馬が急死した路傍によく建てられた馬の無病息災の神である馬頭観世音の文字が刻まれた石碑がありました


冒頭の廃校となった小学校の校区を引き継いでいるのが、下の写真の青菅小学校です。この青菅小学校自体も明治6年に開校した志津小学校の分校で昭和61年(1986年)に志津小学校から分離独立した小学校です。
 志津小学校の沿革
  1873年 印旛郡第六番小学区公立井野町小学校として創立 
  1887年 村立上志津尋常小学校と改名
  1945年 村立志津小学校と改名
  1954年 市立志津小学校と改名
  1961年 上志津小学校 分離独立
  1967年 井野小学校   分離独立
  1976年 小竹小学校   分離独立
  1977年 青菅分校    廃校
  1986年 青菅小学校   分離独立
明治6年(1873年)と言えば、私が小学1年から4年まで通っていた広島の小学校も開校が明治6年でした。開校時の名前は「協心舎」で、今は広島市立井口小学校です。
その後は神戸に引っ越して神戸市立本山第一小学校から神戸市立本山中学校と進みました。ちなみに神戸市立本山第一小学校は明治8年(1975年 136年前)に田辺小学校として開校し、神戸市立本山中学校は昭和22年(1947年)に開校いたしました。


明治6年開校が偶然のようですが、実は明治5年8月3日の学制発布があったことが関係しているようです。ネットで書かれていた小学校の歴史です。
1872年(明治5年)8月3日の学制発布により始まった日本の近代教育制度において、初等教育は当初、小学校尋常科という名称の学校で行われ、1873年(明治6年)1月15日に設置された官立の東京師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)を皮切りに、1875年には、ほぼ現在並みの約2万4千校の小学校が全国各地に設置された。
しかし、1874年(明治7年)の段階で、小学校への就学率は男児46%、女児17%、総計平均で32%に過ぎず、3人に1人しか小学校に通っていない状況であった。1890年(明治23年)になっても小学校数は2万6千校、就学率は49%と増えてはいるものの、ほぼ全員が就学していると言えるようになるのは明治の終りのことであった。
1886年(明治19年)の小学校令で、尋常小学校(尋常科)と高等小学校(高等科)が設置された。このときの尋常小学校(義務教育)の修業年数は4年間であり、その後に高等小学校の4年間の課程があった。1900年(明治33年)に小学校令が改正され、高等小学校の課程は「2年または4年」とされた。その後、何回かの変遷を経て、澤柳政太郎文部次官の下、1907年(明治40年)に尋常小学校が6年間、高等小学校が2年間となった。
1936年(昭和11年)の統計では、尋常小学校を卒業した者のうち、旧制中等教育学校(旧制中学校・高等女学校・実業学校)に進学する者は21%、まったく進学しない者(就職等)は13%、高等小学校に進学する者は66%だった。
第二次世界大戦下となる1941年(昭和16年)4月からの初等教育は、国民学校という名称の学校で行われた。国民学校には、6年間の初等科のほかに、初等科を修了した者が進学できる修業年限2年の高等科の制度が設けられていた。国民学校の初等科は、1947年(昭和22年)4月1日の学校教育法の施行とともに順次廃止され、戦後の新制学校である現行の小学校に移行した。

赤いマークが廃校になった青菅分校で緑のマークが現在の青菅小学校です。青菅分校の敷地には青菅会館(公民館)があります。
  青菅分校   千葉県佐倉市青菅148-2
  青菅小学校 千葉県佐倉市宮ノ台1丁目17-1


113年前の姿をみせてくれる旧水戸農業高等学校 [水戸]


写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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水戸の茨城県立歴史館敷地内にある旧水海道小学校本館を紹介いたしましたが、おなじ茨城県立歴史館敷地内に旧水戸農業高等学校を立っていました。今回の建物の写真はすべてクリックすると拡大するように設定いたしましたので気になった写真があれは、是非ともクリックしてみてください。

水海道小学校本館は遠く常総市水海道から移設されてきたものですが、この水戸農業高等学校本館はもともと歴史館の敷地に1900年(明治33年)から1970年まで,茨城県立水戸農業高等学校の本館として使われていました。
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クリックすると拡大旧水海道小学校本館は洋館でしたが、こちらには純日本建築ですが、左右対称で車寄せがあるところは洋館を意識したものかもしれません。
この建物は1900年に創建し1970年の茨城県那珂市に移転するまでまで70年間、使われました。建物が使われなくなったことから同じ歴史館敷地内ですが違う場所に1975年10月に移築・復元されました。通常は外観のみの公開ですが、講座室として各種ワークショップなどに利用されているそうです。
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旧水戸農業高等学校の横には運動場があり子供たちが遊んでいました。木造の学校の横で子供たちが遊ぶ姿は、昔を思い起こさせる風景です。


水戸農業高等学校の沿革です。
 ・1895年~1900年 水戸市南三の丸
 ・1900年~1970年 水戸市緑町(現・歴史館敷地)
 ・1970年~現在   那珂市東木倉
 1895 明治28年 4月26日 茨城県中央農事講習所として 水戸市南三の丸に創設
 1896 明治29年 4月 1日 茨城県簡易農学校に校名変更
 1899 明治32年 5月 7日 茨城県農学校に校名変更
 1900 明治33年 6月13日 水戸市緑町の新校舎に移転 (現・歴史館敷地)
 1901 明治34年 5月30日 茨城県立農学校に校名改称
 1923 大正12年 4月 1日 茨城県立水戸農学校となる
 1948 昭和23年 4月 1日 茨城県立水戸農業高等学校となる
 1950 昭和25年 4月 1日 石塚分校設置 茨城県東茨城郡城里町
 1963 昭和38年 4月 1日 石塚分校独立常北高等学校となる
 1970 昭和45年 2月18日 那珂市東木倉(現在地)に建物竣工全校移転完了
 1975 昭和50年10月    創建当時の姿に本館を移築・復元

 1987 昭和62年 4月 1日 農蚕科募集停止
 1989 平成 1年 4月 1日 農業経済科新設
 1992 平成 4年 4月 1日 生活科募集停止 生活科学科新設
 1995 平成 7年 11月 7日 創立100周年記念式典
 2005 平成17年 11月 9日 創立110周年記念式典(県民文化センター)


航空写真でも旧水戸農業高等学校を紹介します。写真上のアイコンマイナスを数回クリックすると茨城県立歴史館や旧水海道小学校本館もわかると思います。

歴史館敷地内には、趣のある灯篭のような石柱がありました。これは六地蔵石憧(ろくじぞうせきどう)で、室町時代後期に花崗岩で作られたもので183cmの高さがあります。
憧(はたぼこ)は寺院の堂内の柱にかけた旗の一種で、石憧はこの憧を六枚組合せ、龕部(がんぶ)には六地蔵が浮彫りされており、県内に存在する多くのものが灯篭型となっているそうです。こちらの六地蔵石憧は茨城県指定文化財です。


こちらの建物が茨城県立歴史館です。大きな建物ですが広い敷地に建っていました。


茨城県立歴史館の展示室は写真撮影が出来ませんが、ロビーはOKとのことなので雰囲気を紹介したいためロビーの写真を掲載いたしました。


小さな村のシンボルタワー [ドイツ]


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我々が泊まったドイツの小さな村Rohrdorf には、こんなシンボルタワーがありました。村の人たちの普段の生活をシルエットにしている素敵なタワーでした。天辺の風見鶏は風の向きによって方向を変えます。どの写真もクリックすると拡大するのでじっくりと見てみると面白いです。シンボルタワーの向こう側の建物が我々が泊まったホテルです。この素敵なホテルに関しては、次に照会出来るように準備をしております。クリックすると拡大村を高いところから撮った下の写真も、よく見るとシンボルタワーが写っています。教会の少し手前です。クリックすると拡大するのでわかると思います。
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この村は観光に力を入れているようです。村自体に観光になるものがあるのではなく近くの山や湖に行く人が、この村のホテルに泊まるのだと思います。この看板から、そんなことが想像できました。この看板の後ろにシンボルタワーがあります。
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ネットで、この村のことを探していると、この村の近隣の人が集まったお祭りの動画を見つけることが出来ました。人数から見て、かなり広範囲から人が集まった、お祭りだと思われます。


春分さんコメントのおかげで、このタワーの正式名がわかりました。メイポール(英語)と呼ぶそうです。日本語では五月柱でドイツ語ではマイバウム(Maibaum)と呼びます。
5月に立てられる背の高いポールで、綺麗に飾られて春の到来を喜ぶ祭りに使われるそうです。我々が、この村のホテルに泊まったのが2010年5月19日だったので、たてられたばかりだったようです。
検索して出てきたネットでのマイバウムの説明は下記の枠内の通りです。
クリックすると拡大このマイバウムの習俗はミュンヘンだけではなく、バイエルン地方の各地域、そしてバイエルン以外にも南ドイツ、チロル、スイス、アルザスなど、ライン河の沿岸一帯に広く見られます。
この柱は五月一日に町の中心に立てられ、スポンサーは町や村の自治体。 作って立てるのは職業組合、ギルドの人たちで、柱にはギルドに加盟している各職業団体を表したシンボルが取り付けられます。
高さは二十五メートルか三 十メートル。 上方にKranz・緑の輪飾りと、そして青と白の細長い布が何本も 吊りさげられ、柱自体にも青と白の着色がなされます。
この柱を立てる儀式は、その日の朝、用意された柱が地域の若い男達によって運び込まれ、指定の場所に固定されると、自治体の責任者やギルドの代表者に よる挨拶が始まり、さらに民族衣装を着た人たちによってフォルクローレの演 奏や踊りが行われ、マイバウムの行事を皆で祝う、といった風です。このマイバウムは秋の収穫祭が終わった頃に取り払われますが、ミュンヘンの ように、飾りだけ取り外して柱をそのまま残しておく地域もあります。

泊まったホテルの3階から撮ったマイバウム(メイポール、五月柱)です。3階から撮っても、この高さなのには驚きでした。
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場所をGoogle地図で紹介いたします。左の航空写真では直接ポールは確認できませんがポールの影が斜め左上に伸びているのが、わかると思います。航空写真上のアイコンプラスをクリックするとさらにわかりやすくなります。右の地図のようにドイツとオーストリアの国境に近い村でした。
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より大きな地図で RohrdorfのMaibaum を表示
冒頭の写真をクリックするのが面倒な方のために拡大写真を掲載いたしました。
 

小さな村の素敵なホテル [ドイツ]


写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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ドイツの田舎の風景を紹介したシンボルタワーのマイバウムのある村に泊まりました。泊まったホテルを紹介いたします。このホテルに泊まりました。ホテルの目の前には大きな木があるので全景は見えませんが雰囲気はわかってもらえると思います。

こちらがホテルの入口です。小さな入口がなんとなくワクワクさせてくれます。
このホテルの名前はHotel zur Postです。
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この写真の右端のドアが、上の写真で紹介したホテルの入口です。その通路には沢山の写真が飾ってありました。おそらく皆さん有名な方々だと思います。ちょっとした名ホテルのようでした。その名ホテルを紹介いたします
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先ずはホテルの外観から紹介いたします。ホテルの全景は撮れないので分割した紹介いたします。こちらがホテルを正面から見て右側です。
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こちらが正面から見て左側です。
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渡された鍵の部屋番号は426でした。ヨーロッパでは日本の2階を1階と表現します。したがってルーム番号が100番台は日本で言う2階で200番台は3階、300番台は4階です。したがって400番台は日本で言う5階でヨーロッパで言うと4階と想像できました。


さっそく、エレーベーターのところに行きました。階段の右側にあるエレベーターに乗りました。ところがボタンは3までしかありませんでした。最上階の4階に行きましたが、上に登る階段はありませんでした。受付カウンターに戻って、場所を聞くと建物の外に出て別棟であることを教えてくれました。


左側の建物がその別棟でした。頭の4が別棟の番号で5もありました。この建物での部屋番号が26なので3階の部屋でした。このホテルには別棟がいくつもありました。かなり沢山の人が泊まれるホテルでした。ホームページを見ると104室あると書かれていました。
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その別棟の3階からの景色です。例の教会とシンボルタワーが目の前に見えました。
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こちらも部屋からの景色です。緑の中に民家がありました。


もう一つ部屋からの景色を紹介いたします。どちらの方向も緑があふれていました。


シンボルタワーの少し左手前にホテルがあります。クリックして出てきた拡大写真では確認できると思います。
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ホテルの1階には雰囲気のあるレストランがありました。
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そのレストランの中です。


ネットからホテルの動画を拝借いたしました。プレーボタンをクリックすると雰囲気が判ると思います。

nyankomeさんの御質問にお応えして建物の壁の絵を掲載させていただきます。建物の左端にあった馬車の絵です。


こちらは入口の上にあった絵です。こちらにも馬が使われていました。


緑のマークがホテルのあったローアドルフ (Rohrdorf) です。マークはホテルの場所につけています。青のマークはGarmisch-Partenkirchenという小さな町です。


道路を挟んで右側の建物も同じホテルで、私はそちらに泊まりました。5つの建物でホテルが構成されていました。ホテルのレストランはマークのある建物にあるので朝食と夕食はそちらでいただきました。小さな村ですが沢山の人が泊まっていました。

より大きな地図で Hotel Zur Post を表示

小さな村の風景 [ドイツ]


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ミュンヘンからウィーンの高速道路の車窓から見える記事で小さな村々を紹介いたしましたが、そんな小さな村に泊まる機会がありました。ウィーンからミュンヘンへ鉄道で帰ってからタクシーでこの村まで来てみました。ミュンヘンから90kmでオーストリアの国境まで60kmくらいの場所です。高いところに上がって、村の写真を撮りました。この記事の写真のほとんどはクリックすると2倍に拡大するように設定しているので是非とも何気ない小さな村の雰囲気を感じて見てください。

この教会は上の写真でもわかると思います。この村で一番高い建物のようです。場所はミュンヘン(ドイツ)とザルツブルグ(オーストリア)のちょうど中間にあるローアドルフ(Rohrdorf)という村です。
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道路から住宅を撮りました。この道はすでに家の敷地です。広い敷地がうらやましいです。
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遠くから見ると大きさはわかりませんでしたが、村の通りには大きな家が並んでいました。大家族か、複数の家族が住んでいるところもあるようでした。
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離れた場所にある家も大きかったです。大きな車庫もありました。
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どの家にも薪が蓄えられていました。木が豊富な証拠です。沢山の木を使い続けても自然とバランスしてきたのでしょうね。


昔、馬たちの水飲み場だったのかもしれません。遠い昔から水が湧き続けていたのではないでしょうか。


教会が見えるメイン通りです。ホテルやレストランと思われる建物がありました。
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村のマークのようです。これは公共の建物のように感じられました。教会と道路を挟んだところにありました。地図にはGemeinde Rohrdorfと書かれていました。住所はSt.-Jakobus-Platz 2 Rohrdorf, Deutschlandです。
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泊まったホテルのあたりから教会とは反対側を撮りました。この日は小雨模様のため写真撮影としてはベストではないけれども村の雰囲気に圧倒されました。
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少し離れと村を撮ると沢山の花に囲まれたところにあることがわかりました。
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緑のマークが、今回紹介の小さな村、ローアドルフ (Rohrdorf) です。緑マークは泊まったホテルの位置につけています。青のマークは昆野誠吾さんからコメントで紹介いただいたガルミッシュパルテンキルヒェン(Garmisch-Partenkirchen)です。

ミュンヘンからウィーンへの高速道路の風景 [オーストリア]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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ドイツのミュンヘンから高速道路を車で走ってオーストリアのウィーンへ入りました。ミュンヘンから東に450kmの距離で約4時間のドライブでしたが、素晴らしい景色が続くので車からの景色を順番に紹介いたします。ミュンヘンの町を出て30分程度、走ると緑豊な景色に変わってきます。この後の写真は家が写ったものが多いと思いますが家がある方が珍しいのです。つまり、このような景色が続くわけです。

牧草地帯でところどころに趣のある家が点在しています。
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この地図の赤い線が今回走った高速道路です。クリックすると拡大するので地名が読みやすいと思います。ウィーンがミュンヘンの真東にあることも判ってもらえたと思います。
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この時期は沢山の花が咲いていました。大きな村の近くも通ります。
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牧場の家は大きいです。
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この車でミュンヘンからウィーンまで走りました。


このあたりでミュンヘンから40分くらいの距離です。
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教会も沢山ありました。この形のオーストリアでは沢山見かけました。クリックして拡大した美しい教会を是非とも見てください。
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牛のいる景色も絵になります。小さな村には教会が建っています。この近隣を舞台にミュージカル映画サウンド・オブ・ミュージック(The Sound of Music)が作られ1965年に公開されました。サウンド・オブ・ミュージックは1938年のナチス党政権下のドイツによるオーストリア合邦(アンシュルス)及び第二次世界大戦の前夜から始まる物語です。
主人公のマリアは修道女見習で、おてんばで、いつもまわりの修道女にたしなめられていました。
ある日、院長に、オーストリア・ハンガリー帝国海軍の退役軍人であるトラップ大佐の7人の子供たちの家庭教師をするように勧められ、大佐宅へ向かう《I Have Confidence in Me「自信を持って」》ところからはじまります。


標高は500m程度でゆっくりと登り下りが続きます。
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牧草地帯ですが、少しづつ山の景色が増えてきます。徐々に映画サウンド・オブ・ミュージックの世界に入ってきました。
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独特の家々が建っていました。
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丘の斜面にに家が建っていました。


木材がたくさん置かれています。


同じような風景が続きます。このあたりがザルツブルク(Salzburg)です。残念ながらザルツブルクの近くでは高速道路の両脇に防音壁が建てられているために写真を撮ることができませんでした。ザルツブルクの都市名の語源はザルツは「塩」、ブルクは「砦」の意だそうです。15キロほど南のバート・デュルンベルクで産出される岩塩をハライン (Hallein) 市において製塩し、大司教から特権を与えられたラウフェン(Laufen)の船乗りたちがハラインからザルツァッハ川(Salzach)を通じてヨーロッパ各地に送っていたそうです。塩の積載量に応じた通行税をこの地の大司教が財源にしていた。このためデュルンベルクの塩が地名の語源と誤解されています。しかしドイツ語のザルツブルクの名が史料に初めて登場するのは755年頃成立した『聖ボニファティウス伝』においてである。当時のサルツブルクの司教はバイエルン公よりライヒェンハル(現ドイツ領)の塩泉および塩釜の利益の一部を与えられ、それを布教の財源としていたそうです。よって地名の直接の由来となったのはライヒェンハルの塩であると考えられていまする。


大きな高い山が現れてきました。オーストリア領に入りました。このあたりからウィーンまだ300kmあります。ザルツブルクからウィーンまでの間も、人の住んでいるところでは防音壁が立ち並んでいたために写真はあまり撮れませんでした。
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オーストリアの田舎の風景です。
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高い山が、次から次へと現れました。


前方にもきれいな景色が現れてきました。
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ウィーンに近づくと起伏がが少なくなってきます。
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なだらかな丘が続きました。
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城のような建物も時々見受けられました。

カイロを離れました。 [機内 CY]

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エジプトのカイロを離れました。カイロ⇒ロンドンのフライトのフライト表示ですがアラビア文字が印象的でした。エジプトともお別れですが沢山の記事も書くことが出来ました。タイトルをクリックすると記事を表示いたします。

 ギザの三大ピラミッド
 エジプト考古学博物館
 エジプトぽいホテル
 カイロの夜景
 エジプトの夕日
 異国を感じさせる風景
 ラシュワン選手のパピルス店
 エジプトのナンバープレート
 ディナー・クルーズ
 ベリー・ダンス
 ハン・ハリーリ市場
 未完成建物の巣窟?
 時代ものの重量級大砲
 ムハンマド・アリ・モスク
 やっとエジプト料理が食べれました。
 辺境の地でエジプトのサンドイッチ
 日本人宅でご馳走になりました。
 この煙は? 火事?
 観光地は守られています。
 昔は日本人 今はロシア人
 エジプトにも水道橋
 ラクダはエジプトが似合います。
 ロバさんの街  カイロ
 砂漠の土産物屋さんのお祈りの時間
 高速道路脇に突然! 戦車
 ダルビーシュ・ダンス
 カイロの東は広大な土漠地帯!
 エジプトの土漠地帯を通る高速道路
 初めて! 飛行機に後ろ向きに座りました。

ロンドンに着くとエジプト(イスラム)の雰囲気はなくなります。
カイロからロンドンの飛行機の中の機内食です。これが最後のエジプトらしい料理でした。名残惜しいかったです。
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ギリシャのあたりの景色です。


カイロ⇒ロンドンの機内です。さすがは外人ばかりです。


ロンドン⇒成田の機内です。 日本人が多いです。やっと日本を感じる雰囲気になってきました。成田から来るときは新型のシートだったのでロンドンからは新型シートを期待していましたが残念ながら古いタイプのシートでした。行きと同様に後向きのシートがある機体でした。


ロンドンを飛び立ちました。


長時間の旅でした。もうすぐ日本です。BA(British Airways)のフライト表示は夜と昼とが色分けされているのでなんとなく昼と夜を感じることが出来ます。


離れるとエジプトが思い出されます。
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今年の初たけのこ [筍]

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2013月4月21日追伸 タイトル:今年の初たけのこ
今年の初タケノコは2013年4月13日にいただきました。スーパーではすでにタケノコが並び始めましたが、近所の地元の野菜を売っているお店で朝掘りの筍が出るのを待っていたのです。前日にお店に行ったときに見かけたので翌日の朝に、さっそく買いに行きました。


家で一番直径の大きい鍋を使って茹でました。さすが朝堀です。短時間で茹で上がりました。太いところも驚きの柔らかさでした。


定番の若竹にです。ワカメが家になかったので買いに行きました。本当は木の芽があった方がよかったのですが、こちらは買い忘れました。やっぱりタケノコはやわらかくておいしかったです。


タケノコの刺身もいただきました。本当の生ではなくて茹でたものです。
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この日は姪っ子たちも来て6名だったのでタケノコだけでは足らないと思い刺身も買ってきました。左は貝づくしでサザエ、ホタテ、ミル貝、アオヤギ、ツブ貝です。右はヒラメ、カンパチ、アオリイカです。メインではないので小さい写真ですがクリックすると拡大します。
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やっぱりビールは飲みたくなります。


タケノコの天婦羅も外せないです。最近、家の中を整理していて見つける濃さが出来たメキシコで買ってきた器に乗せてみました。
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せっかく天婦羅をしたので海老の天ぷらも用意いたしました。
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今回の汁物はタケノコの味噌汁にいたしました。
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最後はタケノコごはんです。やっぱり美味しいです。
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右下の写真が野菜などにつけられているタグですが生産者の番号が書かれているのが特徴です。地元の生産者が持ち込んだ野菜などを売っているのだと思います。野菜その日のうちに売れきれてしまうものが多いようで、夕方に行くと野菜の種類が少ないのもこちらのお店の特徴です。卵なども地元の新鮮なものが売られています。
したがった卵は、ほとんどこちらで買っています。朝堀のタケノコは開店してすぐになくなってしまうので、場所を掲載すると競争相手が増えてしまうのですが、是非とも美味しいタケノコを味わってもらいたいので場所を紹介いたします。
  店名 樫の木直売所
  住所 佐倉市青菅940-1
  電話 043-463-8877
  営業 9:00~17:00



2010月5月2日追伸 タイトル:竹の子づくし
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昨日(2010年5月1日)、いつもの朝採りのタケノコが並ぶお店に、9時の開店前に行って竹の子を買ってきました。今は竹の子が沢山出回る季節で、その朝採りの竹の子を売っているお店にも沢山並びます。スーパーでもこれだけ沢山並ぶこと少なくなってきましたが、このお店は評判になってきたために買に来る人も増えたためたと思います。早く行ったのは、少しでも良い竹の子を買うためです。太くて短いものを2本買いました。さっそく午前中に茹でて夕刻料理をしてもらいました。これは新メニューの竹の子の田楽です。焼き色が食欲をそそります。

上の写真はクリックすると拡大しますが、クリックが面倒な方のために拡大写真を掲載いたしました。美味しさが伝えられるでしょうか。


竹の子ごはんも、初めて混ぜ御飯にしてみました。事前に煮込んで味を付けた竹の子と具を炊き立て御飯に混ぜるのです。美味しかったです。御飯のつやがいいです。クリックして拡大してみてください。
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こちらの筍ごはんも拡大させてもらいました。


定番の若竹煮ですが、いい竹の子を選んだので、柔らかな若竹煮が出来ました。庭の山椒の葉も今が一番いい季節のようです。
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こちらも定番になってきた筍の天ぷらです。塩でいただきました。今回は沢山の中から選んだだけのことはありました。
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もちろん、お吸い物もつくりました。すべての料理が竹の子料理の筍尽くしになりました。
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2010月4月11日掲載記事 タイトル:新物たけのこ

新物の朝掘りタケノコを買ってきました。2日前から野菜の直売店に入り始めたと聞き、開店9時と同時に買いに行きました。いつも、すぐに売り切れてしまうので朝早く行く必要があります。
まだ少なく全部で8本しか置いてありませんでしたが4本を買いました。
最盛期には山のように積み上げられているので、貴重なタケノコと感じさせてもらいました。今年は春先が寒かったので遅れているのかも知れません。450円を2本と280円を2本買いました。

タケノコの上手なゆで方をネット で検索いたしました。
①穂先を斜めに切り落とします。 また火が通りやすくする為に縦に切り込みを入れます。外側の竹皮を2〜3枚はぎ取ります。
②大きいサイズの鍋に竹の子・水・米ぬか1カップを入れ火に掛けます。(水からゆでる)新物の竹の子なら30分ぐらいが目安です。 竹串がスーと通ればゆであがりです。
(※時間の経っている竹の子は、堅く「えぐみ」もありますので、米のとぎ汁や赤唐辛子も入れて1時間ぐらいコトコトとゆでてください。)
③ゆでられたら、そのまま蓋をしてゆで汁が冷めるまで1日放置します。(竹の子のまろみが出てきます。)
④水洗いをし、皮をむきます。
この通りにやってみました。1日放置と書いてありましたが夕方までの放置としました。写真は竹の子をゆでているところです。新しい竹の子だけれどもトウガラシは入れました。


あとは定番の料理です。
先ずは炊き込みごはんです。薄味が我家の味です。
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若竹煮です。 いつもなら庭の山椒の若芽が入るのですが、まだ硬い蕾のままなので、この日は木の芽はなしとなりました。
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お刺身も作りました。お刺身といっても茹でた竹の子をワサビ醤油で食べるだけです。


小さい280円のタケノコは焼き竹の子にしてみました。皮の表面は真黒になるまで焼きました。


お吸い物には、この日、採ってきたツクシも入れてみました。こちらも木の芽がないのでネギにいたしました。
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翌日の夕食の汁物は竹の子の味噌汁にしました。木の芽は我家の葉まだまだなので近くの雑木林から採ってきました。
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その時のメインはタケノコの天婦羅にしました。その中に土筆の天ぷらも入れてもらいました。
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牧草地の黄色いお花 [ドイツ]

が表示された写真はクリックすると拡大します。

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ドイツの小さな村を散策していると牛さんに出会いました。カメラを向けると注目されてしまいました。小さな村の周りは牧草地になっており沢山の花が咲いていました。特に黄色い花が目立っていました。

その黄色い花を大きく撮りました。五枚の花びらの可憐な花です。
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すでに紹介いたしましたが、小さな村の周りは花がきれいな時期でした。
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クリックすると拡大します。名前が判りませんでしたが、まほさんに教えていただいた候補の花の写真です。ネットから拝借させていただきました。名前はポテンティラ・アウレアです。花びらの枚数や花びらの形から近い種類には間違いなさそうです。

焼き肉の美味しい食べ方 [肉]



お肉に焼き肉の焼き方の説明書が付いていました。読み始めてみると、当たり前のことで、わざわざ説明するほどでもない気がしました。 ところが!
3番目(赤枠)のところが、なかなか味のある説明だったので紹介いたします。
お肉をのせます。お肉をのせたら、縁のあたりが焼き色に変わるまでチョッとの間ガマンです。すぐにひっくり返そうとすると、お肉が鍋にくっついてしまいますので、このガマンが上手に焼くポイントです。お肉の縁のあたりの色が焼き色に変わってきたら、ひっくり返します。お好みにもよりますが、ひっくり返したら余り時間をおかずに、色が変わった程度でお召し上がりいただくと、やわらかく・ジューシーに焼きあがります。

この焼き方を実行してみました。しゃぶしゃぶのように各自が自分の肉を一枚焼いては食べて、また一枚焼いては食べました。
実際に味わってみて判ったことはひっくり返すタイミングと食べるタイミングが美味しく食べるポイントであることを実感しました。1枚食べることに試行錯誤で、もっと美味しく食べるタイミングを探しながら食べましたが、本当に美味しくいただきました。
市販の焼き肉用のタレも用意しましたが、結局は私だけでなく子供二人も塩(ぬちマース )だけで食べました。胡椒も使いませんでした。肉本来のジューシーさが味わえたので塩だけが良かったのだと思います。
最近では珍しくお肉は竹の皮で包まれていました。


お肉です。塩しかつけないのであとは焼き加減とタイミングがよしあしを決めることになることを実感したわけです。
タイトルは「焼き肉の美味しい焼き方」にしようかと思いましたが、説明書のタイトルを見て、ずばり「焼き肉の美味しい食べ方」としました。


肉の拡大写真も掲載いたしました。


お肉は熊野牛だそうで初めて知りました。但馬牛の流れをくむ牛だそうです。
美味しい焼き方を教えてもらえたので、お店を紹介いたします。
 ㈱大西食品さんでした。

ミニシクラメンの原種 [ロワール]

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フランスのロワール地方のシュノンソー城の森の中で見つけた花です。写真はクリックすると拡大します。

外部Web ⇒ 原種シクラメンに似ています。

鎌倉大仏 [鎌倉]



初めて鎌倉を訪問した時に行きたい場所の一つが鎌倉大仏ではないでしょうか。
私も初めて鎌倉を訪れましたが、やっぱり鎌倉大仏を訪問いたしました。修学旅行生が沢山来られている時期でした。

私がはじめてだったのだから、まだ鎌倉を訪れていない人も沢山おられると思うので、いろんな角度の鎌倉大仏の写真を紹介いたします。鎌倉大仏は神奈川県鎌倉市長谷(はせ)にある浄土宗の高徳院(こうとくいん)の本尊である阿弥陀如来像(国宝)です。鎌倉大仏は「長谷の大仏」とも呼ばれる鎌倉を代表する銅製の大仏です。像高約11.39mで、台座を含めた高さ13.35mです。重量は地震対策を行った時にジャッキアップして計測した結果、約121トもあることがわかりました。
体部に比して頭部のプロポーションが大きい点などが鎌倉期に流行した「宋風」の仏像の特色を示しており、鎌倉時代を代表する仏教彫刻として国宝に指定されています。また、後世の補修が甚大な奈良・東大寺の大仏と比べ、ほぼ造像当初の姿を保っている点が特徴でもあります。


本像の金属組成の平均含有比率は銅68.7%、鉛19.6%、錫9.3%となっており銅が比較的少なく、鉛の含有量が多いことが特徴で本像の鋳造に際しては宋から輸入された中国銭が使用されたと推定されています。


鎌倉大仏の創建に関しては諸説があり、正式には不明となっていますが、それらの中で建長4年(1252年)から造立が開始された大仏が、現存する鎌倉大仏であるとするのが可能性の高い定説だそうです。
鎌倉大仏は、奈良の大仏のように、元来は大仏殿のなかに安置されていましたが大仏殿は地震と津波と大風(1335年)で何度か倒壊し、何度か再建されたと推定されていますが、こちらも正確な年代や倒壊理由は、判っていません。しかしながら、少なくとも応安2年(1369年)の倒壊以後に大仏殿が再建された形跡は見つかっていないことから643年間、露坐(屋外にむき出し)であったようです。そのために表面が腐食して現在の色合いになったようです。


これが創建当初大仏像を収めていた大仏殿(堂宇)を支えていた60基の礎石の一つです。現在、境内に56基の礎石が残されているそうです。いずれも神奈川県小田原市の根府川産の輝石安山岩だそうです。礎石に彫られている排水のためのカーブを描いた溝が印象的でした。上に乗っかる柱の底部が腐らないようにするための工夫だと思います。


こちらが大仏の後ろ姿です。よく見ると背中に窓らしきものがあります。


初めて鎌倉大仏に訪れる方のために見どころの一つ紹介します。実は大仏は内部が空洞になって人が入れるのです。


こちらが内部に入るための入口です。入るために小銭を用意しておいてください。
料金は一人20円で、名前は「胎内拝観料(Entrance Fee)」となっていました。時間は8時から16時半なので見たい方はこの時間帯を覚えておいてください。


大仏の鋳造は体部が7段、頭部は前面が5段、背面が6段に分けて行われましたが、像の内外に残る痕跡から、その鋳造方法を見ることが出来ます。写真は真上方向を撮ったもので穴の部分が首でその上の空間が頭の部分です。茶色っぽい色に見えるところは補強を行ったさいに塗布された繊維強化プラスチックです。


高徳院の正式名は「大異山 高徳院 清浄泉寺」です。
境内一帯が「鎌倉大仏殿跡」の名称で国の史跡に指定されておりIMG_6816-146.jpg鎌倉大仏以外では、目立って大きな建造物はありませんでした。入口の仁王門が一番の建物のような気がしました。開基(創立者)や開山(初代住職)はともに不詳なのです。そんな境内の中に下の写真の李氏王朝の月宮殿を1924年に移築した「観月堂」があります。
観月堂の内部には江戸幕府2代将軍の徳川秀忠が所持していたとされる聖観音像を安置しており、鎌倉三十三所観音霊場の第23番札所の本尊になっています。
それ以外で境内の見どころとしては右の写真の与謝野晶子の歌碑があります。歌碑には「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな」の歌が刻まれています。つまり与謝野晶子が鎌倉大仏のことを「美男におはす 」と評した歌なのです。


こちらが高徳院の入口にある仁王門です。仁王門自体は江戸時代の作といわれています。1700年代の初頭に他の場所から移されてきたものと考えられており、安置されている吽形像と阿形像の仁王像も同時期のもの考えられています。仁王像に関しては2011年10月より調査・修復事業を実施しており別の場所に写されていることから約2年間は見ることが出来ません。


仁王像の門をくぐって拝観料を払って受付を通ったところに手水舎がありましました。ここから鎌倉大仏の頭の部分が見えてきます。


高徳院の入口の道路脇には5基の碑がありました。少なくとも3基は庚申塔でした。庚申供養塔の文字が読み取れました。


周りの駐車場は整備されており、歩いて2~3分の距離の駐車場にバスを置くことが出来ました。


タグ:日本 鎌倉 大仏

海をはさんで富士山が見えるはずでした。 [鎌倉]



すでに紹介した鎌倉には右のチャーターバスで行きました。そこで鎌倉からの帰りに海の向こうに富士山が見える景色が見たいと運転手さんに頼むと三浦半島の葉山に行ってくれました。残念ながら霞んでいて富士山を見ることが出来ませんでした。
正面の島が江の島です。空気が澄んでいたら江の島の少し左側に富士山が見えるのです。

富士山がどのような大きさで見えるのかが気になったので、同じような場所からの写真をネットで探しました。左が拝借した写真です。江ノ島と比べて大きく見えるのに驚きました。益々、見たくなりました。下の地図の紫のマークが葉山マリーナで、紫のラインが富士山の方向です。この場所から富士山までの直線距離は76.52kmです。紫のラインをクリックすると距離が表示されます。
緑のラインは稲村ガ崎から富士山を見た方向です。
kazu-kun2626さんの稲村ガ崎の夕景冨士トラックバックしています。
他のマークは、すでに紹介した場所でマークをクリックすると、名前を表示します。

沢山のヨットが集まっていました。ヨットの練習をしているのかもしれません。


ここは漁港でもありました。沢山の漁船を見ることが出来ました。鎌倉での午前中から3時ごろまでは散策の時は快晴で空気も澄んでいたのですが、帰るころは霞んでしまいました。


航空写真で葉山マリーナと漁港を見てみました。大きなチャーターバスですが9人だったのでゆったりと座ることが出来ました。


kazu-kun2626さんの稲村ケ崎からのダイヤモンド富士 不発にトラックバックしています。

マカロンで出来た誕生日ケーキ Ispahan [話題]


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2013年4月14日は姪っ子の誕生日でした。誕生日会で娘が買ってきてくれたのがピエール・エルメ・パリ(PIERRE HERME PARIS)で買ってきてくれたケーキでした。ピエール・エルメ・パリのスイートで有名なのがマカロン(MACARON)です。そのマカロンが使われたケーキでした。今回、掲載したケーキの写真は全てクリックすると拡大するように設定しましたので是非とも拡大写真を見てください。

クリックすると拡大右の写真の普通のマカロンは、固く泡立てたメレンゲに砂糖、アーモンドプードル(パウダー)等を加えて混ぜて焼き上げた柔らかな2枚の生地にクリームやジャム、ガナッシュをはさんだパリ風マカロン(マカロン・パリジャン、macaron parisien)のことを指し、正式には柔らかいマカロンという意味のマカロン・ムー(macaron mou)と言われています。もともとはマカロンは16世紀にイタリアのカトリーヌ・ド・メディシスがフランス国王アンリ2世のもとに嫁ぐ時に、多くの料理人と菓子職人を引き連れて来て、その菓子職人によって、現在の元となったマカロンがイタリアからフランスに持ち込まれたそうです。イタリアではアマレッティと呼ばれていました。ただしフランス・ロワール地方のコルムリーの修道院では791年から現在までマカロンが作られていたそうです。現在のパリ風マカロンになったのは1930年にパリにあるラデュレという菓子店のピエール・デフォンテーヌが2枚の マカロンにジャムやクリームをサンドして売り出したのがはじまりだそうです。

クリックすると拡大新鮮なラズベリー(フランス語ではフランボワーズ)がたっぷりと使われているのを感じてもらうために横からの写真も掲載いたしました。誕生日祝い用の細いローソクももらってきたのですが、マカロンにローソクを立てるのはお薦めしないとのお店の人の話だったのでローソクは使いませんでした。ケーキーの上には真っ赤なバラの花弁が飾られているセンスの高いケーキでした。ケーキの名前はイスパハン(Ispahan)です。ピエール・エルメの代表作品でもあるようです。そしてイスパハンはバラの一品種の名前であるとともに、見事な庭園がある古都(古代ペルシア)の名称でもあるそうです。
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マカロン・ローズに挟まれたラズベリーを拡大いたしました。クリックするとさらに拡大いたします。お店ではフランス語のフランボワーズの名が使われているラズベリーの新鮮さが伝わってくると思います。
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ケーキの上に乗っていたバラの花びらも掲載いたします。小さな水滴のアクセントが印象的な傷一つない新鮮な花びらが使われていました。3枚の食用バラの花びらは娘と姪っ子たちが食べました。ピエール・エルメ・パリのマカロンを食べた方は、このケーキのすごさがわかってもらえると思います。お洒落な美味しいスイートでした。
お店の名前にもなっているピエール・エルメ(Pierre Hermé)はフランスの「パティスリー界のピカソ」といわれている人物であり、自らの名前を使用したPIERRE HERMÉ PARISというパティスリーショップを展開しています。彼はパリ風マカロンの発祥の菓子店であるラデュレの副社長にもなったことがあります。
その日本店でもあるピエール・エルメ・パリ・青山(PIERRE HERME PARIS Aoyama)はピエール・エルメの日本初の路面店として、2005年2月にオープンたお店です。ホテル内には1998年にニューオータニにオープンさせています。
  住所 東京都渋谷区神宮前5-51-8 ラ・ポルト青山1F・2F
  電話 03-5485-7766
  営業 1F 11:00~20:00  2Fカフェ 12:00~20:00
  定休 不定休
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娘と姪っ子たちで記念撮影です。今回は私と娘と家内と姪っ子と姪っ子の妹さんと姪っ子のお母さんの6人だったので、さっそく6等分に切りました。ラズベリーは周囲だけではなくて中にも沢山入っていました。さらに沢山のライチも入っていました。そしてローズ風味の生クリームが使われていました。フランボワーズ(ラズベリー)とライチとローズの味と香りが楽しめるケーキでもありました。
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これがマカロン・ローズです。マカロンの食感が伝わったでしょうか。
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クリックするとバックのHP下の写真がケーキを入れて帰った紙バックです。実は穴(リーフホール)の開いたクリックするとWikipediaデザインがピエール・エルメのデザインの特徴で左のようなバルバラリール(Barbara Rihl)デザインの革製のオリジナルバックも売られています。
スイーツ界の巨匠であるピエール・エルメ氏の写真も紹介しておきます。
アルザス・コルマールのパン屋の4代目として1961年11月20日に生まれ、現在、51歳です。

嵩山門(すうざんもん) [鎌倉]



鎌倉の記事をいくつか掲載していましたが中断していたので、残った記事を最近の記事の合間に入れさせていただきます。鎌倉の建長寺は開放的で観光客や参拝者はいろんな場所に入れるのですが、神聖な修行の場所だけは入ることが出来ません。
それが嵩山門(すうざんもん)の奥のエリアです。

右の写真のように門の左側に「これより奥は坐禅修行道場につき拝観おことわりします。」の看板が立てられていました。外人の観光客も多いためか英語でも「KEEP OUT!」と書かれていました。
下の写真が正面からの嵩山門です。修行の場にふさわしい入口の門構えです。


門の上の「嵩山」の文字が印象的でした。右の柱には「本派専門道場」と書かれており左には「四部録提唱」と書かれていました。四部録を調べてみると信心銘、証道歌、十牛図、坐禅儀のようですが、もう少し調べてみる必要がありそうです。


これが門の場所から見た奥の道です。


中に入れないとなると、奥がどのようになっているのか気になります。航空写真で紹介いたします。大きな建物がいくつもありました。写真の左上端に嵩山門があります。


建長寺の唐門 [鎌倉]



唐門建長寺の中で一際、輝いていたのが上の写真の唐門でした。実は一年半近くをかけて補修が行われ、昨年に完成(2011年5月30日 落慶法要)したばかりだったのです。右はネットから拝借した補修前の唐門の写真ですが、補修により建立時の唐門を、ほぼ再現できたそうです。
建長寺の唐門は、もとは1626年(寛永3年)から1628年の間に建立された東京の芝増上寺の徳川秀忠夫人崇源院御霊屋正殿(現在、仏殿)前の中門と考えられるとのことです。1647年(正保四年)に移築されて、現在は方丈(龍宝殿)の正面にあります。勅使門ともいわれています。

唐門の補修中の写真をGoogleのストリートビューから拝借いたしました。
Googleの撮影者が建長寺境内に入ってきたようで境内のいろんな場所を見ることが出来ます。非常に鮮明な映像です。
補修中のGoogleのストリート・ビューの画像です。→ポチッ
補修中の唐門

少し離れたところから見ると唐門と龍王殿がバランスのよい姿を見せてくれます。この写真を撮った位置は、龍王殿や塀や植え込みから補修中の写真を撮った場所に近いことが分かってもらえると思います。


門の飾りを拡大いたしました。


さらに拡大いたしました。


こちらが龍王殿側から見た唐門の内側です。正面の柱の間は4.1mで、前の丸い柱は42cmで後ろの角柱は36cmの堂々とした作りです。花紋や唐草の彫り物や漆塗りも再現されたようです。


こちらが方丈(龍宝殿)です。他の建物と違い、落ち着いた風情を見せてくれているような気がします。


龍宝殿の回廊の正面部分です。


これが龍宝殿の内部です。人がいるときは撮影を遠慮するようにとのことです。今回のように行事が行われていないときは自由に撮ることが出来ます。


龍宝殿の裏側は日本庭園になっており、休憩のための椅子が置かれています。そこに座ってゆっくりと景色を楽しむことが出来ます。


角度が変わると日本庭園も違った風情を見せてくれます。


龍宝殿の回廊は文字通り一周できます。最初の入口近くの回廊です。


タグ:鎌倉 建長寺

茅葺の鐘楼 [鎌倉]



樹齢750年のビャクシンを紹介した鎌倉の建長寺にはもう一つ趣のあるものがありました。それが写真の茅葺(かやぶき)の鐘楼(しょうろう)です。建長寺の境内には沢山の建物゛ありますが茅葺なのは、この鐘楼だけでした。

これだけの風情を見せる建長寺の鐘楼に関する記述はほとんどないのにも驚きました。そこに吊るされている今から757年前に造られた国宝の梵鐘が有名なために、鐘楼にに関する記述が少ないのではないかと思いました。鐘楼は新しいものかもしれませんが国宝の梵鐘にひけをとらない風情がありました。


それは周りの景色に溶け込んでいました。奥に見える禅道場の門である嵩山門です。これより奥は座禅修業道場で一般の拝観が出来ない神聖な場所で門の右側には「本派専門道場」と書かれていました。建長寺の正式名称は「巨福山 建長興国禅寺」で、臨済宗建長寺派の大本山です。
この写真をクリックすると、この場所のストリート・ビューを表示します。


その嵩山門から見た景色です。三門と鐘楼の素晴らしい景観だと思いませんか。


梵鐘に関する説明書きです。1255年(建長7年)に関東の鋳物師の筆頭であった物部重光によって鋳造されたものです。 


国宝の梵鐘の姿も紹介いたします。総高208.8cm、口径124.3cm、重さ2.7トンで、平安時代の作風を踏襲しているそうです。建長寺創建当時の貴重な遺品です。建長寺の梵鐘は関東一美しい梵鐘とされており、音色が人の泣き声に似ているということから「夜泣き鐘」とも呼ばれています。