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戦国時代の城 下高野館(しもこうや やかた) [千葉]

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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今から600年~400年前の千葉県の印旛沼の西側地域には、すでに紹介した小竹城先崎城のように防御のための城が沢山あったことが知られています。その小竹城や先崎城の近くには、同じような役目を持っていたと思われる館の痕跡が、写真の小山の中に見つかっています。また麓の人たちの家にも館があったことが言い伝えられています。その館は八千代市下高野地区にあることから「下高野館」と呼ばれています。こちらの写真は館から南東方向から撮りました。

その下高野館が建っていたと思われる場所を航空写真にマークいたしました。この小山は東、西、南の方向に対しては高台になっていますが北に広がる台地とは同じ高さで、その台地から舌状に突き出た部分なのです。
地形的には先崎城と類似しています。

より大きな地図で 下高野館 を表示
真上からではなく、斜めから見た航空写真も紹介いたします。
クリックすると周りの建物の雰囲気が判ると思います。
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このあたりの景観を動画で紹介いたします。 プレーボタンをクリックしてください。
最初の画面の中心が先崎城で、画面が左方向に移動して一度ズームする場所が下高野館(下高野城)が建っていた高台です。右の写真をクリックすると別画面で動画を見ることが出来ます。
下高野館と先崎城は直線距離で530mでした。


南西方向から下高野館があったあたりを見たものです。この森の中に土塁の遺構が残っています。下高野館の奥の台地は梨畑や畑が広がっていました。下高野館ではなく、上で書いた(下高野)は一般的な呼び方ではありませんが、下高野城と書いた理由は後で説明いたします。
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小山を拡大すると斜面に、小さな祠(ほこら)があります。この小祠は、下高野館が建っていたあたりの土地の所有者(Mさん)の家の氏神様とのことでした。お願いして、高台のあたりを下高野の地元のKさんに2013年5月31日に案内していただいたときに偶然にも高台の畑のあたりで、その所有者のMさんに会うことが出来ことから小山の中に入らせていただいた上に案内までしていただきました。さらに写真撮影の許可もいただきました。
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これがMさんの家の氏神様の祠(ほこら)です。祠の奥が、館の周囲にあったと思われる土塁の一部です。写真の中で右端に写っている方がMさんです。


祠の中の飾りも撮らせていただきました。初めて見るもので真新しい飾りで、この祠が大切に受け継がれていることを感じました。


クリックすると大きな画像PDFを表示Mさんの家では氏神だけてなく、この稲荷大明神も祀られておりました。2つの守り神があるのは珍しいとKさんから教えていただきました。
Mさんの家では辻切りを始め、成らせ餅、節分、サナブリ、カッキリなど、昔からの多くの伝統行事を守っておられます。これだけたくさんの伝統行事を続けられている家は貴重な存在だと思います。右の写真のように「広報よちよ」にも何度か掲載されました。今年の2013年2月14日のNHKのおはよう日本で「下高野の辻切り」が放映されました。同じ2月14日ですがNHKの「こんにちは いっと6けん」でMさんの家のクリックすると拡大節分行事(右の写真)が放映されたくらいです。放送内容は辻切りの記事の後半で紹介させていただきました。→ポチッ
2012年の2月29日にもNHKで千葉県の色々な民俗行事の紹介の中でMさんの奥さんも出演されたそうです。


館があったと思われる場所を囲むように土塁がありました。土塁の上を歩いている方がMさんです。写真を撮られている方が、民俗博物館やこの場所を案内していただいた地元のKさんです。これは館の西方向の土塁です。


北側の土塁から上の写真を撮った方向の写真です。


この石碑の中央には「身魂霊神」と書かれており左右にはカタカナ交じりの漢字で、石碑に由来が書かれていました。写真をクリックすると、完全ではありませんが、その文章を読むことが出来ると思います。
文章は 「大石某ナル者 此地 居城ヲ構ヘタリト伝フモ記録存セス・・・」 と始まり
     「記載ナク年代不詳其ノ後我祖先此處ニ住居ヲ定メ・・・」       と続き
     「大石氏を身魂?神ト祭リテ以テ・・・」                   と続き
     「其ノ由緒ヲ傅フルモノナリ」                と締めくくっています。
この石碑は1925年に立石幸造さんが後世に伝えるために建てたものです。立石幸造さんは現在の当主の先祖の方と思われます。将来のことを考えて倉に残された資料や代々伝えられてきたことを石碑に残したものと思われます。内容から見ると大石氏が城を構えたと書かれていることから城主の姓は大石であったことになります。また「館」ではなく「城」の言葉が使われており、しっかりとした土塁に周囲を囲まれていたことから下高野館は「大石城」あるいは「下高野城」と表現できるのかもしれません。
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館跡に近い場所から、今までに13枚の板碑(いたび)が見つかりました。写真はその板碑です。板碑は中世仏教で使われた供養塔で、板状に加工した石材に梵字=種子(しゅじ)や被供養者名、供養年月日、供養内容を刻んだもので鎌倉幕府(1185~1333年)の武士の信仰に強く関連すると考えられているそうです。一番右の板碑には梵字が読み取れます。
下高野地区は立石さん、小澤さん、深山さんの3つ姓で構成されており、いずれも千葉氏とゆかりのある姓であることから、下高野館も千葉氏系の館主であったと考えられています。
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書かれている文字を読むため所有者のMさんに坂碑を抜いていただきました。写真をクリックすると文字が書かれていることが判ると思います。文字は正確には読めませんでしたが全体の形が判ることから546年前の古さが伝わってきました。発見された板碑のなかで古いものは文正2年(1467年)であることから、少なくとも戦国時代の少し前から館があったものと考えられています。一方、距離的にも関係が深かったと考えられている先崎城は臼井城の支城であったことから下高野館も臼井城(12世紀中頃~1604年廃城)の支城であったと考える方が多いようです。参考にこの時代の年代を書いておきます。最大の戦いは1566年に上杉謙信が臼井城を攻めて謙信が敗退した時ですが、それ以外に臼井城に関わる戦いが記録されているのが1479年、1561年、1564年などがあります。
 鎌倉時代    1185~1333年   板碑の起源
 室町時代    1336~1573年
  建武の新政  1333~1336年
  南北朝時代  1336~1392年
  戦国時代   1493~1590年   印旛沼周辺での戦いの時期
 安土桃山時代 1573~1603年
 江戸時代    1603~1868年
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板碑は発掘された場所の近いところに祀られていました。
この坂碑は「大先祖 八良右エ門 之墓」に祀られていました。
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小山の上から館跡の方向(南方向)を撮ったものです。この畑からも沢山、板碑が発見されたそうです。


館があったあたりは東側、南側、西側は急な崖になっていることから北側から上がっていきます。この道は梨園に軽トラックが上がっていくために整備されたものと思われます。道の脇にも太い木が生えていることから軽トラックが通れる道が整備される以前にも、元となった道があったと想像されます。昔、この元となった道が、空掘りだったのか、単なる小道だったのかは判りませんが、昔も北側のみが館に上がってこれる方向だったことは、まちがいないことである上に、この天満宮あたりは畑以外は、昔のままの地形と想像されることから、何らかの防衛のための地形だったのだと想像されます。直感的に、この道は空堀であったのではないかと感じました。左側の土手の奥に館がありました。左側の土手は単なる自然の地形なのか土塁なのかは今となって判断が難しいところですが、少なくとも入口に近いところは土塁になっていたのだと思います。畑で削られた部分を頭の中で復元してみると全体の形が判ってくるものと思います。


この写真は空堀かもしれない道を上り詰めたあたりです。今となっては確認はできませんが、道が空堀であったとするならば、つきあたり付近が昔の主郭への入口である虎口ということになります。そんな想像をしてみるとロマンを感じます。


これが空堀と思われる道の近くにある菅原神社です。 地元の方は天満宮と呼ばれていました。


天満宮の拝殿と本殿です。この近くの地域は江戸時代は幕府領とクリックすると拡大旗本領と佐倉藩領で構成されていました。隣接する小竹村、井野村、青菅村、先崎村、上高野村は佐倉藩に属していました。下高野村は寺社除地という区分で272村で構成された印旛郡地域で1村だけの区分でした。寺社除地の定義はよくわかりませんが特別な地域であったようです。
そんな下高野村に版木が伝えられていました。その版木から刷ったのが右の版画です。版画は大宰府天満宮・宮司・西高辻信長・氏により鑑定されたそうで右上に、宮司の「天満大自在天神」の添え書きが書かれていました。
クリックすると拡大菅原道真の別称に「天満大自在天神」があることから、こちらの天満宮は学問の神様ということで近隣の受験生の方が絵馬を奉納されていました。そんなこともあり菅原神社の名前が使われている気がします。絵馬には版画の「天満大自在天神」が使われている、ここだけの絵馬です。
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天満宮の横にはいくつかの社がありました。奥から2つ目の鳥居の社(祠)が下高野館と縁のある「甲人大明神」です。沢山の社(祠)は麓の人たちが、それぞれに担当があり大切に管理されているそうです。
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これが正面から見た「甲人大明神」です。下高野館のあった小山の下の方の庭で昔の武士の兜が発見されたそうです。その兜を祀ったのが「甲人大明神」です。
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その兜は残念ながら盗まれてしまったので、今は社(祠)の中には石碑が祀られています。大切な文化財は、みんなで大切にしてほしいものです。
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天満宮(菅原神社)と下高野館の関係を示す地図を紹介します。庚申塔と書かれているのは下高野地区の庚申塔を建てられている場所です。今で庚申講が続いており、庚申塔の建立も1993年、2000年、2007年とつづいており、7年ごとにあたる来年(2014年)には新しい庚申塔が建てられるそうです。
また辻切りも下高野地区には6体あり、この地図上にも2体を見ることが出来ます。クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大福蔵院は下高野地区のお寺で、明治初期には井野小学校の分校「下高野小学校」でもあったようです。写真は左から「下高野の庚申塔」「下高野の辻切り」「沢山の十九夜塔が建つ福蔵院」です。十九夜塔も7年ごとに建立されており来年2014年に庚申塔とともに建てられるそうです。


下高野館に関してはネツトにも詳しい説明がないことから、下高野館跡を案内してもらったKさんにお願いして2013年5月31日に八千代市立郷土博物館の方の話を伺いに行きました。その後に下高野館跡に行ったわけです。八千代市立郷土博物館(黄色)には貴重な資料が展示されており国道16号を挟んでジョイフル本田の園芸売場(青色)の向かいにあるので、是非とも買い物の時にでも一度、見てみてください。入館料は無料です。スーパー・イズミヤ八千代店(空色)の隣でもあります。
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郷土博物館の内部です。一部のもの「撮影禁止と記載」を除いて写真撮影も許可されています。


下高野館の周辺の戦国時代の城跡を緑色のマークで紹介いたします。マークをクリックすると名前と説明を表示します。中心近くの左側のマークが下高野館(下高野城)です。この画面上に出てきている城跡は下高野館、井野城、先崎城、小竹城、臼井城、師戸城、岩戸城、保品竜害城、神野館、正覚院館、米本城ですが、広範囲を表示させると志津大口館、志津城、上峠城の位置もマークしております。まだマークは付けていませんが新川の西には吉橋城、尾崎館、高津館、妙泉寺城、神久保寺台館、飯網権現砦がありました。同じく、まだマークを付けていませんが臼井城周辺には洲崎砦、稲荷台砦、田久里砦、忍台城 、臼井田宿内砦などもありました。今回は地図ではなく高低が判る地形図を使用しました。地形図の中のアイコン写真地図をクリックするとまた違ったことを発見できるかもしれません。黄色のマークは八千代市立郷土博物館です。

より大きな地図で 印旛沼の城 を表示


ネットで参考にさせていただいた下高野館の記事を枠内に紹介いたします。検索した結果、詳しい記載は、この一件のみでした。
http://www.geocities.jp/tsukayan0112/joukan-tiba/simokouya-yakata-2009/simokouya-yakata-2009.html
城跡ほっつき歩記  2009年3月30日掲載
下高野館
凸千葉氏系統の小城館か
「八千代の歴史」(上巻)によりますと、「仮称下高野館」として掲載されています。その明確な歴史的経緯は不明とされていますが、印旛沼へ続く小竹川を俯瞰する台地上に位置し麓に所在する旧家の名称などから千葉氏系統の小城館と推定を行ったうえで、臼井氏、その後の臼井原氏の家臣が拠る一支城という可能性を示しています。
また低地を挟んで東方約500mの台地上にに先崎城が所在していることから、その関連性を深さを示唆しています。
凸 台地先端部の遺構
クリックすると拡大 台地の南東端に小祠が祀られた小規模な土塁地形に囲まれた小郭が台地辺縁部に所在しています。また下高野の「北野天神」(天満宮)境内が台地の基部(台地狭隘部)に所在しており、当時においてはこの辺りにも空堀や土塁などの防御施設が構築されていたものと考えられますが、現在の神社の土塁や参道などの整備により地形判別が難しくなっておりました。また天満宮には「堀に落ちた武士の兜を拾い上げて祀ったと伝承の残る」「甲人大明神」(かぶとだいみょうじん)という祭神が合祀され、中世城館との関わりを暗示しています。
台地先端部の遺構は、南と東側を急斜面で囲まれ、西側には堀底道で北側は小郭を隔絶する土塁跡と思しき地形が明瞭に残存していますが、 単郭としては余りに狭隘に過ぎる向きもあります。クリックすると拡大 かといって複郭の形態を具体的に想定するには、耕地化(確か梨畑だったかと記憶)による地形の改変が大きく、日没までの時間の制約もあり天満宮との間の地形の想定は困難でありました。 (注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。 (注2)なお、この「概念図」については「電子国土」等の地形図を参考にして現地作成していますが、おぼろげな記憶を頼りにしているところもあり極めて不正確なものです。
凸土塁上の小祠
クリックすると拡大 武蔵型板碑の小片らしきものも散見される土塁上の小祠(祭神不明)。画像右側が郭内ですが、大きめの腰郭ほどの規模しかないことから、この祠が祀られている向こう側の果樹園(たぶん梨畑と記憶)を中心に主郭のようなものが存在していたと考えたいところです。
凸下高野館郭跡と堀底道(推定)
クリックすると拡大  画像中央部の平坦地が左手の土塁により遮断され、やや不整形な小郭状の地形を形成しています。  また、画像右下が堀底状の道となって麓の旧家まで続きいていますが、堀底道であるのか耕作等のための生活道路であるのかは不明です。
「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
「八千代市の歴史通史編上」(2008/八千代市)
千葉県八千代市下高野字天神

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ナツパパ

下高野館、たしかに要害の地ですね。
一面田んぼのところからこの丘を攻めるのは大変そうです。
by ナツパパ (2013-06-03 14:23) 

kazu

SORIさん、こんにちは。

下高野館跡を見事にまとめられましたね。
航空写真や地図を駆使されまして、本当に誰にでも理解しやすいような歴史文です。

いつもながら感心させられました、ありがとうございます。
早速「M」さんにも報告させていただきたいと思います。
by kazu (2013-06-03 14:40) 

SORI

ナツパパさん こんにちは
意外と険しくて平地の方からは簡単には登れない感じでした。この地域は大きな城である佐倉城や臼井城も石垣を使わずに土塁と空堀です。その伝統的な作り方なのかもしれません。
by SORI (2013-06-03 15:57) 

SORI

kazuさん こんにちは
おかげさまで、記事を書くことが出来ました。ありがとうございます。「M」さんに、よろしくお伝えください。それにしても500年前の遺構がはっきりと判る形で残されているのはすばらしいと思います。地域の人たちと自然の竹や木の力によって守られたのだと思います。
by SORI (2013-06-03 16:01) 

Onias・P

伝統行事を守られているMさんという方、歴史あるお家柄なのでしょうから責任感もあろうかと思いますが、大変なことですよね。。
こうした方のご苦労があるからこそ、地域の伝統文化が伝承されていくんですね。
by Onias・P (2013-06-04 00:07) 

ちゅんちゅんちゅん

こんばんは!
継承していくのは大変なことでしょうね。
頭が下がる思いです。

by ちゅんちゅんちゅん (2013-06-04 01:01) 

SORI

Onias・Pさん おはようございます。
ほんと、すばらしいと思います。地区の方の御厚意により辻切りの行事に参加させていただき始めてお会いしました。そのおかげで今回も快く案内していただきました。というよりはKさんとMさんのつながりの力が大きかったと思います。
by SORI (2013-06-04 04:16) 

SORI

ちゅんちゅんちゅんさん おはようございます。
皆さんに教えていただき、すばらしい伝統行事が継承されてきたことを知りました。ほんと大変なことだと思います。
by SORI (2013-06-04 04:18) 

kazu

SORIさん、こんばんは。

Tさんに、この館跡のコピーを昼休みに届けました。
いつもながら素晴らしいと、奥様までお褒めの言葉がありましたよ。

確かに、SORIさんのまとめ方や起承転結が見事に描かれていますよね。
辻切りの時も、Tさんは驚いていましたから、NHKのビデオ倶楽部の方に見せて、あの番組が出来たのですから...。

ところで、今朝Tさんに散歩の途中お会いしたそうですね。
Tさんは田んぼに除草剤をまくところだったそうです。あの橋の青菅寄りの3枚はTさんの田んぼなんですよ。

ではまたの機会にお会いしましょう。
by kazu (2013-06-04 18:44) 

SORI

kazuさん こんにちは
コピーを渡していただきありがとうございます。Tさんに喜んでいただき、うれしいです。ここまで書けたのは皆様のおかげです。あの石碑の内容は非常に大切ですね。下高野はロマンのある地区なのに驚いています。
そうなんです。ワンコの散歩の時にお会いしました。先日、あったばかりなので、偶然に会えるとうれしいものです。
また、会えるのを楽しみにしております。
by SORI (2013-06-04 19:01) 

ねじまき鳥

堀や土塁が残っていますね。
貴重な遺跡です。
関東には板碑が多いですね。

by ねじまき鳥 (2013-06-05 22:23) 

SORI

ねじまき鳥さん おはようございます。
数百年前の遺構や地形が残されているのには驚かされました。先祖の残したものを大切に継承されてきたことに感心させられました。
by SORI (2013-06-06 05:48) 

kazu

SORIさん、こんにちは。

 >つきあたり付近が昔の主郭への入口である虎口ということになります。
新しく追加された上記の文なども面白い見かたで、本当にそういうふうに見ると館があったころの面影が、目をつぶると浮き上がってきますね。

素晴らしいアイディアです。
by kazu (2013-06-06 14:31) 

SORI

kazuさん こんにちは
単なる想定にすぎませんが、地形的に見て虎口が台地側にあったとに思えてくるの理由の一つが小竹城の虎口の位置なのです。小竹城は守りの要となる断崖と反対の台地側に虎口がありました。上高野城も、やはり断崖と反対側に虎口があり、それを土塁によって守っていたと考えるのが自然だと思えました。

by SORI (2013-06-06 16:49) 

kazu

SORIさん、こんばんは。

そうでした、大佐倉駅からほど近い「本佐倉城跡」(国指定史跡)も印旛沼側に虎口があって、その奥に二の丸や本丸がありました。

大佐倉駅を出て間もなく、右手にその虎口が見えます。両方の高台の間の低い位置でした。
千葉氏の居城で、臼井城と同時代にあり主に上杉勢などとは臼井城で戦ったのでした。
築城は1470年ころと推定しているようです。
by kazu (2013-06-06 20:39) 

SORI

kazuさん こんばんは
ほんと印旛沼のあたりはお城が多いですね。一度、本佐倉城跡を見に行ってみます。ここは大きなお城だったようですね。
by SORI (2013-06-06 21:42) 

kazu

SORIさん、おはようございます。

ぜひ見に行ってみてください。高台からは印旛沼はもちろん、条件が良ければ筑波山まで見えるんですよ。
千葉氏の守護神「妙見神社」もありますよ。
by kazu (2013-06-07 07:20) 

SORI

kazuさん おはようございます。
場所を検索してみました。
 http://goo.gl/maps/6VwLO
晴れた日に行ってみたいと思います。
by SORI (2013-06-07 07:30) 

kazu

SORIさん、

検索されました「本佐倉城跡根古谷の館」は狭いところでして、大きい本丸がある場所は、田んぼを挟んだ北側にある「妙見社」の上の高台です。京成電車からもあの虎口が見えますよ。
by kazu (2013-06-07 07:46) 

SORI

kazuさん おはようございます。
情報、ありがとうございます。事前に場所が判っていると助かります。楽しみになってきました。
by SORI (2013-06-07 07:52) 

kazu

SORIさん、こんばんは。

菅原道真公の版画と、それを写した絵馬が追加されましてさらに充実しましたね。

また、「下高野村は寺社除地という区分」と言うのも新発見ですね。
知りませんでした。
素晴らしいです。
by kazu (2013-06-08 19:38) 

SORI

kazuさん こんばんは
下高野村は寺社除地という区分に関してはWikipediaの印旛郡の中で「旧高旧領取調帳」の明治初年時点が引用されていました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E6%97%9B%E9%83%A1

by SORI (2013-06-08 21:02) 

kazu

SORIさん、

そこには、「寺社除地(領主から年貢免除の特権を与えられた土地)」
と出ていますね。
年貢免除、とは当時ではかなりの優遇処置ですよね。
下高野がそういう特権があったとは信じられませんね。
by kazu (2013-06-08 21:09) 

SORI

kazuさん こんにちは
下高野村とはっきり書かれているので間違いないのではないでしょうか。
この文面からすると下高野村は特別な場所だったのでしょう。さらに調べるには旧高旧領取調帳の筆写本や日本史料選書3での確認となりますね。
by SORI (2013-06-08 21:37) 

youzi

戦国時代の舞台となった場所の名残がありますね。大きな木はその当時の様子を見ているんだろうな。
by youzi (2013-06-20 06:26) 

SORI

youziさん おはようございます。
500年前に歩いて10分の場所に城があったことにロマンを感じます。今もその時の名残が残っていることに、ほんとうに驚かされました。
by SORI (2013-06-20 08:13) 

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